甲種合格の籤逃れ

 普通、初年兵が入隊するのは1月の10日ですが、『2.26事件と郷土兵』の証言をみていると、異なる日付が散見されます。

 そのうち、1月20日に入隊したひとりが、「これは甲種合格の籤逃れで入営を免れたが、中隊の方に欠員が生じたので補充の形で入隊を命ぜられたためである。」と語っています。

 「徴兵と籤」の意外な取り合わせに初めは驚きましたが、これが当時の若者の理想だったようです。

 男と生まれたからには甲種合格したい。でもそれでは現役徴集される可能性が高い。願わくば、甲種合格して、籤にあたりませんように! といったところでしょうか。

 日本の旧軍の性格については、さまざまなところで証言が見受けられます。

「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓によってどれだけ多くの犠牲者が出たか、戦死者の過半数は戦闘死ではなく餓死・病死である、下級兵士が戦場をはいずり回る間、高級将校たちは安全なところで酒池肉林等々の他この『2.26事件と郷土兵』の中にも、「終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ない」という言葉がみられます。

 そもそも、戦争の大義とか作戦自体がおかしかったのですから。

 E0049842_15452555 ハムニダさん所でみた軍人コスプレのこの方は、そんな事情を知ってか知らずか。

 ご存じであれば、まあ、勝手におやりください。でも、他の人まで道連れにしないでくださいね、私はごめんです、と言いたいです。 

 さて、明治以来の徴兵令は、1927年に兵役法が公布されたことで廃止されました。

 その結果、男子は20歳になると徴兵検査を義務づけられ、判定結果は「甲種」「第1乙種」「第2乙種」「丙種」「丁種」と分類されて、「丁種」以外は連隊区司令部の兵役原簿に記入保管されました。

 この原簿から誰を召集するかは連隊区司令部の権限で、1939年までは、甲種、乙種の合格者の中から必要な人数が集められました。

 父は170cmを超えた、当時としては珍しいほど大柄で健康そうな男子でしたから、もちろん甲種合格でした。「優秀な帝国臣民」と認定されたわけです。

 籤に当たって10日に入隊したのか、それともひとまず籤で逃れて後日入隊したのかどうしたのか分かりません。

(が、ともかくも1936年2月26日に、父は第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊)にいたのですが、歩兵第3連隊も全ての中隊が事件に参加したわけではなく、当日の夜、決起将校が週番指令をとっていた中隊に限られています。)

 それはさておきこの籤ですが、引くのは本人ではなかったということです。自分の運命が他の人の掌中にあったのも皮肉なものですが。

 ところが、それに承知しなかった人たちがいたのです。

 連隊区司令部では金品と引き換えに原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正で召集を免れた人たちです。父の生家も、けっして貧しくはない農家でしたが、そんなこと考えもしなかったのかもしれません。

 召集を逃れたものの職業をみると、軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く、その他配給業務に携わる幹部料理屋の主人群を抜く知名人であったといいます。

 こうした人たちが、いわば戦時中の勝ち組、といったところ。その他大勢の負け組は貧乏くじを引いたわけです。

 そんな現状を揶揄した替え歌がこれです。

  世の中は に に ヤミに顔
    官に尾を振る ポテやくざ
  真正面(まとも)じゃ末成(うらな)りネエ 青びょうたん 
    水でふくれて 死ぬばかり

 星は陸軍、碇は海軍、ヤミはヤミ商人やブローカー達、軍需景気で儲けた人や会社の重役、顔は、その筋の顔きき。

「さのさ節」の替え歌ということですが、「ネエ、さのさ」で終わるこの歌のメロディーは覚えていません。父が懐メロ番組でよく聞いていましたが。

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2.26事件との遭遇

『2.26事件と郷土兵』という、埼玉県編纂の2.26事件証言集に目をとおす機会に恵まれました。なんでも事件参加者の半数以上が埼玉県出身者だったことから、県史の別冊として刊行されたもののようです。

 Photo_1 1981年の刊行当時はまだ存命中の父でしたが、証言者の中には入っておりません。でも、恥ずかしながら、どのページを読んでも、どの写真を見ても、涙があふれてくるのを抑えられません。

 3rentai 事件参加者のほとんどが、父の生年、大正4年前後の生まれです。

 これまで私自身は、2.26事件というものをなんとなく避けてきた気がします。父もほとんど語ることはありませんでした。ただ、「父ちゃん、怖かった」と、かすかに笑いながら、チラッと言ったことだけ覚えています。

 それで今頃になって知り、驚いたこと。

 計1,558名の参加兵員のうち、なんと父のような初年兵が、1,027名を占めているのです。事件参加者のうち、3分の2が初年兵だったのです。

 初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1月10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇しているのです。

  父がどの連隊に属していたのか、とうとう最後まで聞くことはありませんでしたが、当時の徴兵区から考えると、第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊に同じ)のいずれかの中隊に属していたのでしょう。

 歩兵第3連隊は蹶起軍1,558名のうち937名という最大多数を擁し、「入隊後は訓練と内務に明け暮れ、毎日が追い立てられるような忙しさ」の中で、2月26日を迎えています。

 2月26日、午前1時、あるいは3時、あるいは4時というように、突如非常呼集されてゆり起こされた時刻は中隊によって異なるようです。そして軍服着用。軍装の整ったところで待機。

 明治神宮参拝、あるいは昭和維新の断行、暴動鎮圧、尊皇討奸、靖国神社参拝、といったように、真偽にかかわらず、一応目的を告げられたところもありましたが、どこへ行くのか、目的が何なのか、まったく知らされずに黙々と営門を出ていったところも。

 各所の襲撃は、午前5時を期して一斉に行われました。

 下士官や2年兵の中には、事件前の連隊の雰囲気、また教育進度の速いことに疑念を抱いた人たちもいたようですが。

 上官の命令は絶対でしたから非常呼集で出動したときも何ら疑わずに従っていき、29日に撒布されたビラをみて、上等兵でさえ、「これほど驚いたことはない」というほどでした。ビラでは、命令に服従したのが誤りであったと説明されていたためです。

 そこには、命令には2通りあって、服従しなくとも良い場合があるのか、と悩む姿がありました。

「今思うと2.26事件の参加は軍隊の裏面を見せられたようなもので、命令による行動にも服従する側にとっては正従か盲従かをよく弁えねばならぬことを教示された気がする。こんな馬鹿げた話しは他にはない。命令は朕の命令しかないはずである。

 反乱軍とみなされて鎮圧軍と対峙するも戦闘を交えずに原隊復帰。1ヵ月のあいだ監禁状態に置かれ、父親である私の祖父も面会を許されていません。そうして4月下旬に監視付の上で帰郷。自宅に帰れる者もいれば、小学校での集団面会しか許されなかった者もいます。その間たったの数時間。

 Photo_2 そして5月に渡満

 「また満州にあっても犯罪者、罪滅ぼしの言葉は耳にタコができる位聞Photo_3 かされ、同時に猛訓練を課せられた揚げ句北支に派兵させられたこともみようによっては一連の仕打ちであったのではなかろうか。

 やはり政治が悪いとすべてが狂ってしまうものである。こPhoto_47れは現代でも同様の筈だ。」

 渡満して翌年、12年の7月、廬溝橋事件を発端に北支事変が起こり戦火が拡大して、連隊に出動命令がおります。

Photo_48 「これから長城作戦を開始する。お前たちは日頃鍛えた力量を発揮し反乱軍の汚名をそそぐよう身命を投げ出して戦闘を遂行せよ」という連隊長の訓示に、「この期に及んで事件を引き合いに出すことは戦闘の名目で我々を殺すつもりか……私は悔しくてならなかった。」と、40何年か前のことを述懐する証言もみられました。

  Photo_49そして、「敵も死にものぐるい」で、「予期以上の激戦」が続きます。

終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ないのである。」

「事件当時入隊したばかりの初年兵だった者が、今北支の戦野で罪滅ぼしの責を背負って激戦地廻りをさせられるとは昭和十年兵は全く不運の星の下に生まれた者である」という証言者の言葉に、また涙がこぼれます。

 反乱兵士の汚名をきせられ、さらには厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、事件参加兵たちの多くは戦死していきます。

軍隊の不条理」ですますにはあまりに重たい、無名の人々の生と死です。

 今では、当時の父の年齢を、子供たちさえとうの昔に超えてしまいました。

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百姓はすごい!――ただのオオカミ遺伝子ではありません

 皇国史観の唱道者、平泉澄に「歴史がない」と決めつけられて豚と同列に置かれ、それを信奉するもの達の捨て石にされた「百姓」たち。

 ところが18、19世紀、江戸の経済システムの中で生産力を発展させていった百姓の中から、巨大な民衆運動が発生しているのです。

「文政六年一千七ヵ村国訴」とよばれるものがその代表で、摂津の国と河内国2ヵ国、合わせて1007ヵ村を代表して、50名の「惣代」(村役人)が郡と国の境界を越えて集まり、そろって大坂町奉行所へ、畿内の百姓が生産した綿花を自由に販売することを求めて訴え出ました。

 この時、幕府領と大名領、旗本領が入り交じった、その境界を越えて庄屋達が郡全体で集まり(郡中寄り合い)「郡中惣代」を選ぶ、あるいは領主ごとにそれぞれ「寄り合い」を開いて惣代(「惣代庄屋)を選ぶという2つの方法で、自分たちの代表およそ50人を大坂の寄り合いに送り出したのが1823年4月のこと。

 惣代によって運動戦略が発案されて地域によって異なる利害関係も巧みに調整され、1000ヵ村以上の村々の結束が持続されるなかで訴願項目がまとめられます。

 結果、7月には勝訴します。

 1854年(安政元)の国訴では摂津・河内1086ヵ村が連合して郡から選ばれた惣代たちが集まって、そこからさらに代表を選び、いわば惣代の惣代54名が訴願運動にあたりました。

 1864年には、摂津・河内の1262ヵ村の連合から惣代の惣代たちが3ヵ月にわたって訴願運動を展開。

 こうした国訴では、惣代には村々から「頼み証文」が差し出され、そこでいかなる問題が発生しようとも、村方が惣代とともに共同責任をとることを保証しています。

「頼み証文」にはかなりの額の惣代の必要経費まで規定して、惣代の立て替えに対しては「利息」まできちんと支払われましたから、見事な代議システムですよね。

 ついでにいいますと、一般的に持たれている「竹やり、むしろ旗」という百姓一揆は、どうも実際とはかけ離れていたようです。竹槍を持ったのはむしろ先の戦争中、というところがおもしろいところ。

 一揆参加者は、「あえて人命をそこなう得物はもたず」として、日常の農耕で使う鎌や鍬、鋤、鉈(なた)等を持ったといいます。つまり、江戸期を通じて百姓一揆は、けっして武装蜂起を意味したものではなかった、と研究者は言っています。

 すごいのは、天保の改革直前の1840年に庄内藩で起きた、三方領地替え反対の一揆です。

 3つの大名の領地を順送りに移し替える費用を押しつけられた百姓達が、各所で数万人規模の大集会(大寄)を開き、十数人から数十人の代表が江戸へ出て、幕府要人や藩主たちに直訴したのです。

 大寄合の参加は高札によって呼びかけられ、集まる際には、畑作物をむやみに踏み散らかすなとか、役人には雑言は言うな、等といった注意点が明確に定められていました。

 結局水野忠邦の反対はあったものの、翌年には三方領地替えは撤回され、一揆勢は軽い処分ですみました。

 まさに、百姓が幕府の転封政策に影響を及ばし、歴史をつくったわけです。

 この一揆については、その後一揆指導者の手で記録となる約80シーンの絵巻物『夢の浮橋』が作られていますから、当時のありさまを見ることができます。

 このときの一揆もよく統制の取れたもので、百姓は木綿や紙でできた村の旗の下に集まり、村ごとに参加していました。

_  ちょっと分かりにくいのですが、大かがり火の横にひときわ高い、先端にひょうたんを逆さにつけた棒が立っています。これが一揆の「目印の旗」。

 その他には「北晨」と書かれた大旗、大太鼓が見えます。別本にはホラ貝の持ち手も描かれているものがあるとか。

「目印の旗」が動くときは「惣つぼみ」で、一揆勢はまん中に集まってまとまる。「北晨の大旗」が動くと「人数繰り出し」で一揆勢は広がってゆく。法螺貝が鳴るときは、最初の場所にまとまる。大太鼓が鳴ると「鬨の声」、「ヤーヤー」をあげる。また、列を正しているときは、組々の旗の下にまとまる。

 真ん中の広場は「催合」といって、「大評議」(全体会議)を行い、村々から1~2名の代表者が大旗の下に集まるところ等々。

Photo  スローガンを記した旗も登場し、掛詞を巧みに使うなど機知に富み、デザイン化されています。

 左は、その中の1つで、西瓜の熟した絵が描かれています(「熟す」は方言で「すわる」といい、これにより、転封に反対する意を表しているそうです)。

 一揆勢が江戸で訴状を提出するのは、老中や奉行、藩主に対してですが、この時、籠にすがって行うので、「かご訴」と呼ばれ、これにも2、3人ずつ組になってするという「作法」がちゃんとありました。

 傑作なのは、かご訴をした大名・旗本からご馳走になることさえあったそうで、くりかえしかご訴を行ったにもかかわらず、罰せられたものはこの時ひとりもいなかったとか。

 いわば、合法的な一揆といえるのでしょう。目からうろこの江戸一揆像です。

 おまけに、当時、村役人たちが公用で奉行所に出張するときに利用した「郷宿」(ごうやど)では、訴願などの文書を作成する指導や代筆、奉行所への取り次ぎまでも仕事にし、料金も気安く依頼できる安いものでした。

 こうした民衆のエネルギー、英知を結集した百姓たちの高度に組織化された運動があったことは、百姓には歴史がないどころか、百姓自身が歴史をつくってきたことを示しています

 勝てば官軍で、江戸の政治と社会をことさら暗黒に描いたのは、明治新政府であったようです。その延長で、百姓もことさら暗愚に色づけされたかもしれません。

 また新政府をつくった、いわゆる「元勲」たちを輩出した西南雄藩は大きな家臣団を擁して民力を支配していましたから、江戸から明治へと時代が変わったとき、あたりまえのごとくその構図を持ち込んだことは十分考えられます。

 それにしても、大結集して自らの意思を権力側に訴えた民衆は、幕藩体制の崩壊後いつのまにか、知恵あるオオカミから牙を抜かれた従順なヒツジになったのはなぜでしょうか。

 大同団結して要求を貫こうとしていた民衆が、一人ひとりバラバラの帝国臣民となって帝国の支配システムの中に組み込まれてしまったのは、どうしてでしょうか。

 農民の力を結集した江戸の一揆の記憶は、秩父事件をはじめとする一連の騒擾、足尾銅山鉱毒事件あたりで途切れてしまいましたし、鉱毒事件の際の田中正造の天皇への直訴は、最後のかご訴と考えることもできます。

 秩父事件は、武装蜂起した点で江戸後期の合法的な体制内変革とは異なってきますが、事件の主人公たちは、蜂起の前に重ねて請願運動をしていたことを忘れてはいけないでしょう。

 合法的な解決の道を閉ざされて蜂起した民衆を圧倒的な力で抑えつけた明治の圧政は、江戸後期の幕藩体制を超える酷さで迫ってきます。

 いわゆる「仁政」を求めて決起した農民たちに、近代国家への脱皮を図る政府があくまでも契約や法律に則った姿勢を貫いたからです。

 また当時、調停手続きあたる「勧解」が、「身代限り」(今にいう破産)処分以上に行われていたという事実もあります。が、「富国強兵」を国是とする政府が、厳しい税負担を国民に強いたことは見逃せません。

 ことに秩父事件の起こる80年代は朝鮮を巡って清国とも対立が深まる一方で、ベトナムやカンボジアがフランスの保護下に入るなど、東アジアへの列強進出が露わになっていますから、民をさしおいても、強兵に力を入れたことでしょう。

 そしてこの強兵政策がその後の日本の対外侵略へと繋がりました。

 ところがその前に、まず軍隊は、国内の農民騒擾に出動しているわけです。軍備増強に重税を課せられ、その上鎮圧に兵力で臨まれては、農民は踏んだり蹴ったり、というところ。

 やはり、請願段階でなにか解決策を探るべきだったのではないか、前の時代のように借金棒引きとはいかなくとも、不況下で窮迫する農民に対する貸し金利子率を下げたり制限を設けたりするのは、人に武器を向けることにくらべたら実に簡単なことではないか、と思ってしまいます。

 勧解手続による「調和」(今でいう「和解」)がどこまで実施されていたのかは分かりませんが、とにかく農民たちは万策尽きて決起し、軍隊の力で鎮圧され、敗走後は厳罰が下されたわけです。

 せめて、警官隊と交戦する決起初期の段階で政府側が話し合いの姿勢を持って現場に直行していれば、事態は違う展開を迎えたのではないか、とついつい考えてしまいます。当時は同じような事件が後を絶たなかったため、そんなこといちいちしていられない、という声もあがりそうですが、それは政治の放棄というものでしょう。

 明治政府はこの戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられたといいますから、もしかしたら ヤスクニに祀られているのでしょうか。

 さて、手元を見ると、「障害者施設補助金」を「一律25%削減」の文字が新聞紙面に見えます。

 身体・知的・精神障害者の小規模通所授産施設などを対象とする、今年10月~来年3月の国庫補助金を一律に25%削減する方針を、厚生労働省が「事務連絡」で都道府県、政令指定都市、中核市に通知していたということです。

 国は自立支援法の施行に伴うものだ、といってますが、あれだけ多い批判に背を向けて粛々とこうした通知を送るのは、明治の暴政と大して違わないなあ、とため息。そもそも、自立支援法の前に、もっとすることがあったでしょうに。

 

 

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インテリジェントデザインと皇国史観

 アメリカでは今でも進化論を巡る論争が続いていて、「インテリジェントデザイン」なるものを公立学校で進化論と一緒に教えるべきだという考えを支持する人たちが結構いると知ったときは驚いたものです。

 インテリジェントデザインの考えそのものも、私には奇異なものに思われます。それを大統領ジョージ・ブッシュまでが支持するというのですから、尋常ではありません。

 アメリカにおける論争については、中岡望の目からウロコのアメリカに詳しく書かれています。

 それによると、なんでも、J・スクープという高校教師が学校で進化論を教えたことで告発された有名な裁判が1925年にあったそうです。それだけでもびっくりしますが、当時テネシー州等には、神による創世を否定するような理論を教えることが禁止されていたと聞くと、よけい驚いてしまいます。

 そうした法律が、政府が国教を決めることを禁止した「憲法第1修正(First Amendment)に反していると、1人の教師が訴えを起こし、判決が確定したのが1968年。

 その結果、南部の学校でも、やっと正式に進化論を教えることができるようになったのです。

 そこで『聖書』の「創生記」をそのまま持ち出すことができなくなって困った人たちが、次は「科学的クリエーショニズム」なるものを考え出して、進化論と同等に学校で教える法律まで作ってしまいます。

 ところがその法律自体が憲法違反だ、ということになり、3度目の正直(?)で考え出されたのが、「インテリジェントデザイン」説です。

 「」という言葉を使わずに、「『何らかの知的存在』が生物進化を引きおこした」というこの考えには、さる京大名誉教授がはまっているということです。ちなみにこの方の専門は英米文学のようです。

 その上このID理論信奉者の先生は、あの統一教会の広告塔にもなっていて、産経新聞紙上でもその考えを披露していますが、その記事の締めくくりには、「進化論偏向は道徳教育にもマイナス 日本の識者も主張」というおまけまでついていました。産経新聞と統一協会は何か関係があるのでしょうか。

 なお、この日本の識者とは、作家・日本画家の出雲井晶氏、中川八洋筑波大教授です。

 ここまでくると思い出すのが、かつて一世を風靡した平泉澄の唱える皇国史観です。

 日本は、天照大神を皇祖とする万世一系の天皇が統治する国であるとするこの考えは、文部科学省所管公益法人日本学協会」に継承されているようです。

 昭和31年に設立されたこの団体の理事長は、平成15年の時点では金澤工業大学教授平泉隆房氏。理事をざっと見ると、水戸史学会副会長の肩書きも見えます。

 そうそう、幕末の尊皇攘夷の一大拠点が水戸で、桜田門外で大老井伊直弼を襲って殺害したのも水戸の浪士たちでしたね。なんだか、だんだんつながってきました。

 話題の「遊就館」に展示されているという人間魚雷「回天」を考案したのは、当時東京帝大の国史学科教授だった平泉澄に心酔した軍人で、平泉は人間魚雷案が軍上層部に採用されるように宮中に働きかけたといいます。

 学生の卒論テーマを聞いたとき、「百姓に歴史がありますか」、さらには「豚に歴史がありますか」と問いかけた、この平泉澄という人物は、ヨーロッパ留学を機に国粋主義を奉じるようになったとか。

 人を人とも見ずに、百姓を豚と同列に置くからこそ、人間魚雷の考えが出てくるのでしょう。もしかしたら彼の頭の中では、神-天皇、支配階層-人間、その他大勢の臣民は豚と同じ、と捉えられていたのかもしれません。

  天皇制を唯一のよりどころにして誇りを保つ。つまり、自らを神の国の臣民と位置づけ、神である天皇を仰ぎ見、豚にも比するその他多くの臣民の上に立つことで誇りを保つ。なんともやりきれない構図です。

 それに、表向きはけっして「豚」とは言わないところが、確信犯的。

 百姓には「歴史がない」と、こうも簡単に切り捨てられるとは、予想していませんでした。ちょっとショック。そうか、かつての歴史の勉強は、歴代天皇の名を覚えることでしたものね。

 海外を見れば、同時期フランスでは、名もなき人々の人口動態等から社会史を研究したアナール学派の誕生がみられます。そのうちのひとり、『歴史のための弁明』を著したマルク・ブロックがナチスの手で殺害されたのは1944年のことですが、この学派はその後の世界の歴史研究に大きな影響を与えることになりました。

 ただし私たちの国では、この名もなき人々が、コイズミ首相を何となく支持するB層とも重なり合うわけです。ますますやる切れなくなってきます。 

 いくら真剣に唱えられていようと、またそれだからこそかえって、インテリジェントデザイン説が私たちの目から見るとなんとも奇妙でおかしなものに思えるように、平泉史観ともいわれるこの皇国史観が日本中を席巻しているのを外から眺めたときは、さぞ怪しくまがまがしいものに思われたことでしょうね。

 平泉は、1954年、シンゾー氏の祖父岸信介に招かれて、自由党憲法調査会で激烈に自主憲法制定を主張をしています。

 インテリジェントデザイン説といい、平泉史観といい、まさにカルトの趣が感じられます。そしてこの両者に接点を持つのが安倍シンゾー氏なのでしょう。接点どころがズブズブともいわれていますね。

 

安倍→ヒットラー→安倍変身バナー

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軍備増強と赤ちゃんの関係

_267 夏の定番ペチュニア。
 _270            
 いろいろあります。
 _271           
 他にも
_273  いろいろ。



 さて、昨日、おもしろいサイトを見つけました。

兵器生活」です。タイトルから軍事オタクのページかと思われたのですが、ちょっと違っていました。管理されている方は、戦前の雑誌等をいろいろ所蔵されていて、ただの軍事マニアではありません。

「戦時下の国策遂行コピー 続きの続き」に出した情報局発行『写真週報』の中の1ページがそのサイトに掲載されていました。43年5月5日号の「時の立て札」、例の「撃ちてしやまむ」の「時の立て札」です。

 同時に当時の雑誌掲載写真もあり、時の政府が考えた「無駄遣い」がよく分かって、私もお腹を抱えて笑ってしまいました。でも、笑い事ではありません

 この兵器生活の中の1ページ、「貯め抜く道は いくらでもある?」を読み進むにつれて、笑い顔がこわばってくるのが自分でもわかります。

 軍備増強にひたすら励めと鼓舞する時の政府は、「赤ちゃんも米英相手の兵器が欲しい。そこで出産の喜びを記念貯金にかえて20円宛奮発すれば」とまでいいながら、国民のさまざまな楽しみを無駄遣いだと断罪しているのですから。

 あかちゃんが兵器をほしがるか!? と、今から思えばナンセンス極まりないところですが、当時はそれが通用したのでしょうか。

 Sbshi134 貯蓄といえば、「貯蓄は銃後の義務だ」という新聞記事もありました。

「断然貯めぬかねばなりません」と、大日本婦人会の面々は決意を新たにしています。

 ワンフレーズとかモットーとかが声高に叫ばれるときには、ちょっと立ち止まって、目を凝らし、耳を傾け、よく考えるときだ、とあらためて心しようと思います。

 

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まだまだ続く、戦時下国策遂行コピー

Photo_46  メドウセージ。藍色が美しい、観賞用のハーブです。

 さて、先日から伝える情報局発行の『写真週報』に掲載されたものが、戦時下日本の報道写真 梅本忠男写真集(全230点)に残っています。

 戦時中の生活については話しには聞いているものの、映像のなせる技か、ひとつひとつの写真を見ていくと、やはり驚きを禁じ得ません。中には哀れさえ感じるものまであります。当の本人たちは真剣だったのでしょうが。

 竹槍模範演技を笑ってはいけません。まさに、かつてのこの国の現実だったのですから。兵士の葬儀の写真には、思わず息をのんでしまいました。そしてかくも盛大な兵士の遺骨の出迎えをみると、戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実を思い出して、もっと複雑な気持ちになります。

 では、1943年6月16日号の『写真週報』の「時の立て札」より。

 Sbshi12 その前の月、北太平洋、アリューシャン列島の西端部、ニア諸島の火山島アッツで、2,500名の日本軍守備隊が全滅したばかりでした。

  戦局はいよいよ苛烈である
   ガダルカナル アッツ
  敵反攻の鋭鋒いづこを狙ふとも
  我に不動の戦略態勢あり
   ガダルカナル アッツ
  玉砕せる殉国の雄魂に報ひんと
  悲憤心魂に徹し
  我ら一億今戦線にあり

 ヨーロッパ戦線では、9月にはイタリアが無条件降伏して、枢軸国の一角が崩れ、国内では女子勤労動員の強化と学徒出陣が実施され、「一億総戦闘配置につけ!」の叫びが聞こえてきます。

  塹壕に絹夜具を持ち込み
  飯盒に刺身を盛り
  長袖をひらめかせて
  突撃できようか
  戦局はまさに捷愴苛烈
  国内もまた 戦場
  虚飾を抛って決戦に
  一億総蹶起の時は今
  野戦の心もて貫かん
  我らが衣・食・住
      (7月7日号)

  防空必勝の誓い
  一、私達は「御国を守る戦士」です命を投げ出して持ち場を守ります
  一、私達は必勝の信念を持って最後まで戦ひ抜きます
  一、私達は準備を完全にし自信のつくまで訓練を積みます
  一、私達は命令に服従し勝手な行動を慎みます
  一、私達は互いに扶け合ひ力を協せて防空に当たります
                             (8月4日号)

 贅沢は敵だ、お嫁に行くときゃもんぺ姿、という言葉はいつ頃からいわれたものでしょうか。絹の夜具だ、刺身だ等、とうの昔におとぎ話になっていたでしょうに、何を今更。でも、当時の人たちは、真面目に本気で防空必勝の誓いをしたのでしょうね。

 なお、梅本忠男写真集の中に、「遠山満を訪ねた幼年学校生徒」とあるのは「頭山満」の間違いだと思います。

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日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか

 13日のNHKスペシャル:「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか」を見ました。

 廬溝橋事件発生当初の不拡大方針にもかかわらず、戦線は欧米をも巻き込んだ世界戦争へと突き進んでいく。この国の指導者たちの甘い見通しに、またしても嘆息。

 客観的な根拠なしに、己の希望的観測から予測を誤る。はたして今は大丈夫なのでしょうか。

 番組の概要を、備忘録として記しておきます。

 69年前の1937年7月7日、日中戦争の始まりとなり、日本の国際的孤立を深めた軍事衝突が、北京郊外の廬溝橋一帯で起った。

 当時の国民党指導者、蒋介石の日記には、多くの国々に日本への経済制裁をとらせようとしたことが書かれ、前年日本と防共協定を結んだドイツは、日本とは友好な関係を維持し、中国への武器輸出は続けるという、日中両国と複雑な関係を結んでいた。

 現地軍司令官、松井石根(まついいわね)の日記からは、中国軍恐るるに足らずと信じ、負けるという感覚がなかったこと、中国軍は烏合の衆と考えていたことがうかがえる。

 金沢を本拠地とする第9師団は、日中戦争出兵当時2万2千の兵力を擁し、開戦後2ヵ月で上海に上陸。南京攻略にも参加。

 92歳の元兵士の証言:昭和12(1937)年9月27日、上海上陸。視界内のものすべて壊滅。敵の屍が続き、血の腐敗した悪臭が鼻をつく。

 廬溝橋事件に対する日本の対応をみると、当時の総理大臣近衛文麿は、満州の日本軍がソ連と対峙していたという事情を抱え、不拡大方針をとった。

 が、陸軍参謀本部の中には「対支一撃論」を唱えて参戦を求めるものがいた。

 対支一撃論とは、満州事変の際の蒋介石率いる国民党の堕落、党員の腐敗を見て、
中国は四分五裂して国家の体をなしていないと分析し、3~5個師団を投入して一撃すれば、中国側はぱっと矛を収めるに違いないという考え。

 が、軍の立て直しを図っていた蒋介石は、事件の起こった翌日の7月8日、日本の侵略者は、我が軍の準備が完了していないと見て、屈服させる気か。我が軍は今こそ徹底抗戦をする、と日記に書き、その後毎日、日本に奪われた国土を奪還し雪辱を果たす決意を示して、「雪恥(雪辱のこと)」の2文字を記している。

 当時上海で居留民保護を目的とする日本軍兵士は5,000人。そこへ陸軍は10万の兵士を送り、戦火は一気に拡大する。

 中国軍が予想を上回る強力な武器を持っていたたことから、10月の日本側兵士存亡率は53%であった。命中精度が高く、当時世界最高峰といわれていたチェコ製のZB26軽機関銃である。

 当時ドイツは最新鋭の兵器を中国に輸出すると同時に、30人の軍事顧問団を蒋介石のもとに送っていた。その代表者ファルケンハウゼンは、中国兵の士気は高く、徹底抗戦の構えは整っている、と記録している。

 このときのヒトラーの意思は、前述の通り、友好国日本との協調関係を維持し、その一方で中国への武器輸出は続けるというもので、装甲車、戦闘機等を大量に中国に輸出していた。廬溝橋事件当時の輸出量は、前年の3倍にのぼっていた。また、ファルケンハウゼン等は中国軍に軍事訓練をも施していた。

 中国側は防御陣地を築き、国際都市上海で戦いが始まれば、国際的関心を引くと判断。

 上海での戦いは激戦だった。ファルケンハウゼンに学んだ中国軍は徹底抗戦を極め、金沢の第9師団は、1ヵ月で1万の兵力を失う。

 元兵士は陣中日記で、共に出征した幼なじみのことを心配していた。

  畑中伍長はどうしているかね? と尋ねると、頭部貫通銃創で死亡しました、という返事。胸も張り裂けんばかりであった。

 こうして暴支膺懲(ぼうしようちょう:「中国を懲らしめる」の意)の声が高まり、兵士たちは敵愾心を募らせていく。

 10月20日、東京の参謀本部は大規模な増員派兵を決めたが、戦域を上海に制限して制令線を引いた。

 日本は、国際法上の戦争にはしたくない、という気持を持っていた。

 戦争になると、「中立法」が存在するアメリカから、武器調達ができなくなることを恐れたためであり、ついに日本は、中国に対して宣戦布告をすることがなかった。

 日本は7万の増員派兵を行う。

 その時、ベルギー、ブリュッセルでは国際会議が開かれるところで、蒋介石は欧米の国々に働きかけて、日本への経済制裁を求めようとした。

 欧米メディアは、激戦の様子を本国へ映像で知らせた。

 蒋介石は、激戦地、四行倉庫の死守を命じる。が、同戦闘は4日間で終わり、ドイツ式精鋭部隊は失われ、11月のブリュッセルでの国際会議も、蒋介石の期待はずれで終わってしまう。

 11月上旬、上海陥落。

 脱走する中国兵追撃の命令を出して、松井石根はさらなる戦線拡大を目指した。 

 11月22日、日本軍は制令線を越えて南京に向かう追撃は可能かと参謀本部に打電。参謀本部は現地軍の独走に歯止めをかけようとしたが、中に現地軍と密かに通じたものがいた。

 そのうちのひとり、下村定中将が独断で、軍上層部は追撃を目指しているように天皇に上奏して発覚したが、罪は問われずにすむ。これを見て現地軍は独断で南京追撃に走る。

 ついに12月1日、軍上層部は南京攻略を命令。日中の戦いはなし崩しに全面戦争へと発展

 蒋介石は国際社会の新たな支援を求め、南京を死守しながら挽回の方策を講じる。

 当時、ソ連が中国に、飛行機、大砲等の武器の供与をしていてが、蒋介石は、スターリンにソ連軍の出兵を電報で促した。

 12月上旬、南京付近で大規模な戦闘があった。

 12月5日にソ連から回答がきたが、それは2ヵ月後の会議で出兵の承認を得る必要のあることを伝えるのみであった。ソ連はこの時、欧州でのドイツの動きに神経を使っていたのだ。

 12月7日、防衛軍10万を残して蒋介石は南京を出る。

 10日、日本軍南京への総攻撃を開始。司令長官が逃亡したため、残った中国軍は大混乱に陥り、3日後に陥落。

 民間人の服に着替えた中国兵が南京城内に潜んでいると考えた日本軍は、「老人と幼児以外のすべての男子を逮捕・監禁すべし」という城内掃討の命令を出す。

 当時国際社会の管理下にあった難民区内も作戦の対象になった。

 日本は、捕虜の人道的扱いを求めるハーグ陸戦法規を批准していたが、宣戦布告のない日中戦争において、この法規をことごとく適用するのは適当ではないとし、また「捕虜」という名称はつとめて使用を避けよ、と命令。

 皇族も含めた南京入場記念式典を2日後に控えて、歩兵第7連隊に掃討命令が出されたが、この時はもはや「逮捕・監禁」ではなく、「捕捉・殲滅」命令で、作戦は12日間にわたって続いた。公式記録では6,670人が殺されたことになっている(この部分、コメントで「1つの連隊が12日間で6670人殺したって言う軍事記録です」と指摘されました)。

 12月16日、若者を5人位ずつ縛って揚子江に連行し銃殺したと、92歳の元兵士は証言した。 

 首都を落とせば中国は屈服すると日本は考え、また国内は戦勝ムードに沸き立っていた。

 このとき近衛首相は、今後、中国国民党政府を相手にせず、と宣言して対話の可能性を摘んでしまう

 一方蒋介石は、首都を重慶に移して、徹底抗戦の構えを見せた

 南京陥落は多くの外国人に目撃されている。

 1938年、ドイツの外交官ゲオルクローゼンが、アメリカ人宣教師ジョン・マギーの撮ったフィルムをドイツに持ち帰る。現在ドイツでこのフィルムは見つかっていないが、コピーが複数あってアメリカに渡り、教会等で繰り返し上映された。

 蒋介石は、毎月10万ドルの宣伝費用を使うべきだとも言い、アメリカ社会への働きがけを強める。

 1938年、アメリカは日本との貿易を制限する政策をとり始める。

 以上、番組から。

 なお、南京陥落の際の虐殺について、元日本軍特務機関員の中谷孝さんの証言が日刊ベリタに載っていました。一度お読みになることを、おすすめいたします。

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戦時下の国策遂行コピー 続きの続き

Photo_42 朝起きたら、ビワの幹に蝉が9匹も。1匹はクマゼミで、残りはアブラゼミです。一番上の端にいるアブラゼミにカマキリが忍び寄ります。

 獲物を狙う猫がお尻を左右に振るように、カマキリは体を横に揺すり……飛びかかりました……が、危ういところで蝉は飛び立ち、難を逃れます。

            後にはカマキPhoto_44リが残りました。

  今日は、戦時下の国策遂行コピー、太平洋での制空権が完全にアメリカに移り、悲壮感さえ漂うコピーから。


  一点の衣、一椀の粥
  総てが国力である時
  暖衣飽食は
  自らの国を引き裂いて着
  自らの国を引きちぎって喰ひ
  遂に船底まで剥ぎ取って
  諸共、海底に没入するの愚だ
         (43年1月13日号)

 これを読むと、何かおかしいな、と感じます。なにか、現実とすでに逆転しているからでしょうか。

 41年12月の開戦から3ヵ月ほどたつ42年2月には、すでに衣料品を手に入れるのには切符が必要になっていました。食料の配給制が始まるのも、そう遅い時期ではなかったはず(42年には主食の米等は、1日分2合3勺(345g)になっていて、やがて配給米の中に麦やサツマイモが米の代わりに加えられ、副食物までは配給制になっていき、遅配・欠配も多くなっていくわけです)。

 そうした国民生活の窮乏をみていて、「暖衣飽食」とはよくいえたものだとびっくりします。贅沢をするものは自らの国を食して諸共に沈没するものだ、という言葉を読むと、「痛みに耐えて改革を成し遂げなければならない」という首相の言葉を思い出しませんか。

 耐えてきたのに、まだまだ耐え足りない、というのは小泉改革と同じですね。

 折りしも竹中氏は訪米中の8月4日、ポスト小泉政権の政策運営について「改革は続くのか」「(引き続き)首相がリーダーシップを発揮するのか」などの質問が相次いで、「改革を続けないと日本経済は基本的には駄目になる」などと答えたといいます。

 要求の際限なさは、すでに戦時中と同じ。

 43年3月10日の陸軍記念日に、有名な「撃ちてし止まむ」の標語が発表されます。

 そして

  制服から作業衣へ
  諸君は日本の
  戦車を軍艦を飛行機を造る逞しい少年工になった
  諸君が得る収入は
  国家が支払うお金です
  良くないことに使っては
  君たちをゆがめ 國をむしばむ
  二重の罪悪です
              (4月14日号)

  わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄の艦となり
  南海の敵を撃つ
  わが積みしそこばくの金 
  けふも銀翼となり
  大東亜の空に飛び立つ
  撃ちてしやまむ
  この暮らしなおゆとりあり
  否、この暮らしゆとりなくとも
           (5月5日号)

 ふー、ここまでいうとは想像できませんでした。43年5月の言葉です……45年8月まで、2年以上もあるというのに。

「この暮らしなおゆとりあり」といったそばから「否、この暮らしゆとりなくとも」と否定しているのは、国民の窮乏をちゃんと知っているわけです。それでもですからね。

 いったい、日本はどうなってしまうの、というより、これ以上国家への奉仕を要求して、日本人の暮らしはどうなってしまうのかと、読むだけで不安になります。実際のむごさはどんなものだったでしょうか。

 少年工の賃金も、「良くないことに使っては、君たちをゆがめ 國をむしばむ」といってどこに使われたか!

 この43年の秋には軍需省が創設され、44年1月から軍需会社の指定を行い、さらには一般鉱工業生産を犠牲にしてでも、徹底的な航空機第一主義に集中せざるを得なくなるのです。そしてその航空機は何に使われたか!

 この方が「二重の罪悪」でしょう。

 

 

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戦時下の国策遂行コピー 続き

 ミッドウェー海戦の惨敗の後は、ガダルカナルの撤退、ニューギニア、ポートモスレビー作戦失敗とつづき、42年6月10日号で「もつともつと、人が要るのだ」といわれたように、「人的資源」補充のために中学、高専、大学は卒業を半年繰り上げ、そこに航空少年兵募集の叫びが高鳴ります。

 42年8月5日号『写真週報』の「時の立て札」より

  地を蹴りて隼は空に征き
  遂に帰らず
  南溟の虚空高く
  雄魂は神と帰したり
  己の死灰の中から甦り飛び立つといふ
  不死鳥のやうに
  その英魂から生まれ羽ばたく幾万の
  護国の隼のあることを信じよう
  死せず 荒鷲死せず

 ここにいう「隼(はやぶさ)」とは、wikipediaによると、零戦についで2番目に多い生産数を誇る、太平洋戦争前半における主力戦闘機。

 この詩は、ベンガル湾で5月10日に戦死した加藤建夫飛行第64戦隊町のことを謳ったもので、何でもこの人は、海軍の「九軍神」に対抗すべく、陸軍で軍神に祭り上げられた人のようです。詳しいことはここにあります。

 「雄魂」「英魂」「神」「不死鳥」「荒鷲」……人の心情をかき立てるような「熱い」言葉が続きますね。なんだか、今でもこうした言葉に意を決してしまう人もいそうです。

 この「時の立て札」に「欲しがりません勝つまでは」の標語が登場したのは11月だったといいます。その頃の詩とでもいえそうなコピー。

  なかなかに君は頑健そうだな
  真珠湾に散った九軍神も
  かつては、君のやうな青年だった
  やれるさ
  君にだって
  軍艦旗が、君を招いて 潮風にはためいてゐるぞ
                      (11月4日号)

 大衆にアピールするのには、「軍神」も必要だったのでしょう。そんな、人々の崇敬の眼差しが注がれる軍神に、君だってなれるさ、とささやく。なんとも巧妙な。

 時々、上場前の株を買え、とかいろいろ儲けをさそう電話がかかってきます。今は電話機に着信拒否の機能がありますからそこへ登録すればいいだけの話しですが、以前はよく、そんなに儲かるのなら、うちなどに勧めずにご自分で買われるのが一番でしょう、などと夫が答えていたものです。

 ほんとうに、そんなにいいものなら、ご自分がまず率先して軍艦に乗ったらいいですよね。

 

                         

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戦時下の国策遂行コピー

Photo_40  アゲラタム。我が家の夏の定番です。

Photo_41  ピンクもあります。

 

 

 日本の8月は、否が応でも戦争が思い起こされます。

 61年前も、こんな暑い日が続いたのでしょうね。

 何気なく手にした27年前の『思想の科学』8月号に、加納実紀代さんが、「『一億玉砕』への道」というものを寄稿されていました。

 70年ほど前、国策遂行に向けて「国民精神総動員運動」の展開と同時に、国民に対する「啓発宣伝」のための中枢機関としてない各情報部が発足し、『週報』と『写真週報』という国策宣伝雑誌が刊行されました。

 この内閣情報部は、1940年には情報局に格上げされて、あらゆるマスメディアの管理統制に乗りだすことになったということです。

 この情報局発行『写真週報』に、「時の立て札」と題して毎週掲げられていた文を加納さんが紹介されていました。

 当時の人々に時の政権は何と呼びかけたのか、好奇心のままに読んでみました。

 まずは、開戦間もない41年12月17日号。

  対米英戦の
  大詔は渙発せられたり
  聖恩に奉り
  国難を完爾として享ける大和魂は一億
  心に剣を執り銃をだけ!
  今ぞ敵は米英だ!
  米英を墓場に送らん!!

 ずいぶんいさましいですね。「渙発」「聖恩」という語も今は使われることもなくなりましたし、「完爾」はgoo辞書にも、手元にある小学館の『国語大辞典』にも載っていません。

 続いて翌42年1月7日号

  捷報に酔ふな
   勝って兜の緒を締めよ
  完勝の為には何をなすべきか
   先づ国民各自の足元を固めることだ
  堅忍持久はこれからだ
   将兵は今日も戦火に突入してゐるぞ

 そしてラングーン(現ヤンゴン)を占領後の42年3月25日号

  蘭印早くも我に降り
  ラングーン又我が手に陥つ
  かくて、大東亜建設の礎石盤石の如く
  彼等如何にあがかうとも
  われら一億既に心決したり
  ひたすらに絶対必勝の信念をもて
  西、ロンドンで入城式を
  東、ニューヨーク沖で観艦式を
  さうだ、その日まで
  きつと戦ひ抜くぞ

 当時一流の宣伝屋、コピーライターたちの苦心の作でしょう。

「将兵は今日も戦火に突入してゐるぞ」という文句は、銃後の真面目な国民の心に響いたことでしょうし、開戦初期の華々しい勝利に、人々の心は沸き立ったことでしょう。

 けれどすでに、2月には衣料切符制が実施されていますし、この後すぐ、4月には米軍機による本土初空襲があります。このことを4月29日号で次のように言っています。

  夙に覚悟の前だつた
  今こそ外征皇軍勇士と相携へて挙国一丸
  あくまでも敵を撃滅し
  畏くも開戦に当り下し賜はった後詔勅に応へ奉らんことを期さう
  敢然と身を挺し沈着機敏、国土防衛に立った国民に感謝と信頼を
  そして不幸敵弾に死傷された方々に心から哀悼の意を表し
  誓って 誓って 国土を護りぬかう

「敢然と身を挺し沈着機敏」「心から哀悼の意を表し」と、美辞麗句が連なります。それにしても、どこかで聞いた文句ですね。

 そしてミッドウェー海戦の惨敗の後は、調子がどんどん変わっていきます。

  一をもって百千に当たるのが日本人のやりかただ
  頭数だけ並べて仕事をしようなんて、それは米英式だ
  量より質、より磨かれた技術、生産の方法にも新工夫を
  遊んではゐられないぞ
  舞台は広くなったのだ、もつともつと、人が要るのだ
                         (6月10日号)

  何でもいゝから蓄めればいいのだ
  そして国家におかししよう
  戦車も 弾丸も 軍艦も
  うんと造ってもらふのだ
        (6月17日号)

「一をもって百千に当たるのが日本人のやりかただ」といいながら、「もつともつと、人が要るのだ」とは!? それに文言も、だんだん信仰じみてきました。

「何でもいゝから蓄め」て、それを「国家におかししよう」……前線・銃後ひっくるめて、人の命も国家に貸したことになったのでしょうか。

 でもこれを信じた当時の人たちを笑えません。去年の衆院解散から丸1年。あの時、私たちの半分は、くりかえされるワンフレーズに見事に騙されてしまったのですから。今でもまだあの呪縛は解けていないのでしょうか。  

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口封じ

_105_1  寒村自伝には日米開戦からの4年間の記録は言葉も少な目です。この間のことを、彼は次のように言ってます。

「大逆事件後の弾圧が苛辣を極め、社会主義の間にいわゆる転向の走りが出た当時、堺先生は私に「黙って忍んでいることも、また勇気を要することなのだ」といわれた。私はその言葉を唯一の力綱に隠忍してきたのだが、一面では無為に対する自責と無力に対する自覚との矛盾に苦しんだ。」

 それでもわずかですが、戦時中の日常生活がうかがわれる話がいくつかあります。 

 どなたかが、ブログで、NHKの朝ドラは戦争中の話だったな、戦争中でもあんな呑気なことをやっていたのかな、というようなことをいわれていました。

 1942年(昭和17年)4月のことですから、開戦からまだ半年も経っていないときのこと。

 寒村は人の案内で、元柳沢吉保の屋敷、六義園を逍遙していて、はじめて米軍機の襲来を経験しています。ドゥリトルが「ほとんど掠めるように疾過して全面の森の梢スレスレに飛び去った」という話です。

 翌43年には、天丼や天ぷらそばがコロモばかりで、たまに中味が入っていれば煮干し。大金を投じた下駄は歯がのり付け、台が3つに貼り合わせてある、とんでもない粗悪品だ、と嘆いています。

 食堂も「外食券」なしでは利用できなくなりますが、食料の配給券を外食券に替えると、砂糖も炭も手に入らなくなります。当時は燃料といえば炭でしょうから、当然外食はほとんど不可能という状態です。

 配給の薄黒い芋の粉は練っても固まらず、コウリャンの入った米は色こそ赤飯だが、どうにも喉を通らない、とこぼしながら、敗戦直前の東京では庭にサツマイモを植えています。 

 とうの昔に砂糖を味わえなくなっているのに、砂糖は人体に有害だ、と唱える学者がいたり、乏しい食料事情から前々から雑草も食べていた庶民に、雑草の中には栄養になる種類があると説く学者がいたり。

 配給のタバコの中にはイタドリ、うどんの中にはドングリが混ざり、 せっけんの配給がなくなる。

 そんな苦しい生活の一端がつづられています。

 六義園で遭遇した米軍機の爆撃は、その後激しさを増し、ことに44年以降は「日をおうて熾烈を加え」ていきます。

 そして45年3月9日の東京大空襲の翌日、寒村は、知人に付き添って行った、避難先の明治座で焼死した人々の屍体が移された浜町小学校のようすを描いています。

「教室であったと覚しい焼け跡には、黒こげになった丸太のような死骸が散乱し、わずかに転がっている鉄兜の位置によって頭部の所在を弁別しうるに過ぎない。その焼けて小さくなった真っ黒な顔面に、白い歯がむき出されている頭部は、黒焼き屋のショウ・ケースに並んでいた猿の頭を思い出させた。そういう室を幾つか通り抜けて、校庭へ出てみて驚いた。何百とも分からぬ累々たる死骸の山なのである。明治座の中で蒸し焼きにされた骸は赤くただれたような色をして、色々な格好に曲がった四肢のところどころに、着衣の切れっぱしが張り付いている裸身の堆積は……」

 さらには5月末のB29、250機の東京大爆撃。

 このころ、寒村が日頃抱いていた疑問がふたつありました。つまり、

・ラジオが空襲警報を放送するとき、あと何分で敵機が東京上空に侵入するか分かっているのに、なぜこちら側から攻撃しないのか? 

・空襲が始まると、しばらくは高射砲の音が聞こえているが、すぐにぱったり止んでしまうのはなぜか? というふたつです。

 これに対して、軍隊に勤める知人の息子は、

 日本の飛行機が足りないため、また高射砲1門につき弾丸5発と制限されているため、と答えています。

 日米開戦後4ヵ月とちょっとで、もう、最初の爆撃を受け、その後は6月のミッドウェー海戦の失敗、翌43年2月のガダルカナル敗退と続きますが、国民に対しては事実を知らせず、ただ、「口封じ」作戦が敢行されていきます

 考えてみれば、2.26事件の後、父もその中に入る、いわゆる反乱軍兵士たちが大陸の最前線に送られて、さらには通常の2倍の兵役期間を課せられたのも、「口封じ」作戦に沿ったものなのでしょうね。

 治安維持法の、とりわけ1941年の改定で実現した、非転向のまま刑期を満了したものは、再犯防止のために拘禁し続けるという予防拘禁」は、口封じの最たるもですね。

 そして共謀罪

 これが「口封じ」に使われない、という保証はありません。成立しただけで、きっと口封じは効いてしまいそう。ただでさえ、今でも自主規制やらなにやらで、マスメディアの口封じは成功しているというのに。

  

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共謀罪から、人民戦線事件を思い出す

_007  ローズマリーのピザを作りました。上に載っているのが、粉チーズに、ローズマリーの花と、刻んだ葉っぱ。ぱりぱりして、お茶の飲みながらでも、またこれからの季節、ビールのつまみにも、ちょうどいいのです。

 今日の話は、このピザとは全然関係のない話ですが……

 共謀罪の危険性がいろいろと語られている折ですから、寒村が実際に経験した、第2次世界大戦前夜のねつ造された治安維持法違反を理由とした検挙――人民戦線事件――について、お話しします。

 1933年(昭和8年)は、寒村が師と仰いだ堺利彦が年初に、年末には父親が他界した年ですが、カタストロフィの序章のような出来事が次々に襲って来る時代でもあります。すでに前年、満州国建国宣言があり、5.15事件も起こっています。

 3月に日本は国際連盟を脱退。ドイツではナチスが政権を獲得。そして、ともに労働運動を闘ってきた仲間が、ひとり、またひとりと転向声明を出していきます。

 1935年には向坂逸郎らと月刊誌『先駆』を出すも、3号で廃刊。

 1936年、妻、玉が倒れますが、この年は2.26事件が起き、ヨーロッパではスペイン内乱が勃発。日独防共協定が締結。

 そして1937年、イタリアが加わり、日独伊防共協定が締結されます。

 その年の12月、日本軍の南京陥落が伝えられた直後、寒村は、人民戦線事件で旧『労農』同人ら400人と共に拘引されます

 「荒畑さん、電報です」の声に雨戸を開けると、警視庁の警官がどやどや押し入って家宅捜査。その後、病床にある妻を案じながら、寒村は何の嫌疑によるものか見当もつかずに、連行されていきました。

 「この弾圧が大きな時局変転の前触れではないかと、漠然とした予感」を感じながら。

 特高室では岡田嘉子夫妻の樺太越境を初めて耳にし、北部中国の兵火がいよいよ拡大、スペインではフランコ将軍率いる反乱軍がバルセロナ包囲を目前にしていた、そんな時代です。

 検挙後はじめて、寒村は、すでに数年前に廃刊した旧『労農』同人に対して治安維持法違反が問われていることを知ります。

 ただし、『労農』はしばしば発禁処分を受けながらも合法的に発行されていて、その点について『改造』や『中央公論』といった他の雑誌と事情は同じで、そのために起訴されたという例は1つもなかったそうです。

 そして取り調べの過程で明らかになったことは、

 1927年の創刊以来一貫して変わらなかった『労農』の主張は、1935年のコミンテルンの決議によって、社会革命の準備のためになされたものだ、というのが検挙の理由でした。明らかに時間的な錯誤がある、と抗弁しても、何を言っても、特高側はまったく耳を貸そうとはしなかった、ということです。

 思想検事の作った、労農派の取り調べ要綱ができあがっていた由。

 このとき、高名な経済学者、大内兵衛氏も検挙されています。

 淀橋警察署に満1年拘禁の後、巣鴨拘置所に入獄した寒村たちは、共産党員が受けたような拷問にはあわなかったといいますが、彼は、警察の留置場に1年も拘禁するのは、暴力を用いない拷問と同じだ、と憤慨しています。

 そうした中で寒村が笑うのは、留置場で見た多種多様な刑事犯たちが、

「一朝召集令状に接するとたちまち名誉ある帝国の軍人、忠勇なる国家の干城と化する」ことです。

「留置人に赤紙が来ると、罪状の如何にかかわらず直ちに放免され、看守巡査や同房者が流行の軍歌を合唱して歓送する。」

 さらに迫害の手は、祈祷や賛美歌に先立って「見よ東海の」で始まる八紘一宇の歌を合唱する教団にまでも及び、「一切の非日本的、或いは自由主義的な思想にまでも拡大されるに至った」

 巣鴨での拘置所仲間には、『労農』同人ばかりか、代議士から大学教授まで、名士がずらーっと並んでいたようです。唯一幸いなことは、取り調べの予審判事が、随分と同情を寄せて親切で良心的だったこと。ただしその判事も、予審終結に際して、

「私の個人的な意見がどうであろうと、上席予審判事が全被告の陳述を総合して、最終の決定をくだすのですから」といい、そのとおり、予審結審の折には、寒村たちはみな、有罪を宣告されます。

 人間一人ひとりの善意ではどうにもならない権力の厚い壁

 この国は、明治10年代の民権派の手になる進歩的な憲法草案を持っていると同時に、こうした戦時体制強化のための無茶な検挙、弾圧の歴史も持っています。

  だからこそ、権力の暴走を許さない制度を作り上げていないといけないんですね。

 憲法上は一応三権分立ということになっていますが、行政改革の旗印の下、内閣の機能が大幅に強化されましたし、議院内閣制の下では与党の総裁が総理大臣を兼ねている上、昨年の選挙では巨大与党が誕生してしまいました。

 行政と立法が限りなく近い存在だ、といってもいいのではないでしょうか。三権分立のバランスはとうに崩れてしまった感さえします。

 「改革」というと、ホリエモンの改革Tシャツに象徴されるように、なんとなく良いことのように受け取ってしまう私たち。

 行政改革とは何なのか、何であったのかというと、どうも行政機構のスリム化と内閣機能の強化という2つの言葉で言い表せるようです。

官僚主導で行われていた政策形成を本来の担い手である国民の代表である政治家の手に取りもどそうとするもの」ということが、東京大学公共政策大学院の森田朗教授の説明にありました。教授は実に多くの審議会等の委員をしてらっしゃいます。

 理屈の上ではそうかもしれません。でも、机上の論理、という印象がどうしてもぬぐえません。政治家をそこまで信用していない、というよりできないのは、この国の悲劇でしょうか。

 おまけに行政機構のスリム化を目指して小さな中央行政府を実現しようとしているのも、どうも胡散臭い、なんだか違うぞ、と、庶民もそろそろ気づき始めていませんか。

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みな、思い思いの青春を生きてほしい

_084 _091_1 1923年(大正12年)、関東大震災が起こったとき、寒村はソビエト連邦に滞在中でした。モスクワではトロツキーの演説も聴いています。

 ちょうどその時、スターリンが着々と権力掌握の策略を巡らしているのを心痛するレーニンは病床にありましたが、その事情を寒村が知るのは後のことです。

 9月上旬に大震災の報に接して上海経由で帰国。自宅に帰ったときは11月になっていました。そこで妻の玉から震災当時の話を聞かされます。

 虐殺の前日、大杉が末の子を乗せた乳母車を押しながら訪ねてきて、

「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配することはないョ」と励ましたそうです。

 この翌日、大杉は妻の伊藤野枝、甥の橘少年と共に無惨な最期を遂げましたが、その10日以上も前に、労働組合関係者10名が、また自警団員ら6名、朝鮮人多数が、亀戸署内や荒川放水路で殺されています。

 そのため、寒村を見た瞬間の妻の言葉は、「何だって帰ってきたんです」というものだったといいます。

 大杉が寒村の妻を見舞ったときに連れていた子が、松下竜一さんの『ルイズ――父に貰いし名は』のルイーズこと伊藤ルイさんですから、ルイさんは、ちょうど私の母と同い歳です。

 友人が親しかったので、晩年近く、何度かお目にかかっていますが、目の大きなきれいな方でした。

 敗戦時、ルイさんも母も23、4歳……

 父は『人間の条件』の主人公の梶と同世代で、入営の翌月には2.26事件に巻き込まれています。麻生3連隊に所属していましたから、上官に率いられて、何か何だか分からないうちに反乱軍の一員にされてしまったわけです。

 反乱軍に加わったということで、通常なら2年で済むところを、倍の4年、兵役に服さねばなりませんでしたし、事件後1ヵ月は兵舎に缶詰にされて肉親との面会もできず、すぐに大陸の最前線に送られています。

 ただ、大陸に送られる直前に、一時、帰宅を許されたという話は、当時まだ小学生の叔父から聞きました。父は1915年(大正4年)生まれですから、敗戦時は30歳です。

  あまり戦場の話をしなかった父ですが、私が中学生の時、流行の米国製TV映画『コンバット』を見るたびに、「本当の戦争はこんなもんじゃない」と、言うのが口癖でした。

 私の親の世代の青春は、まさに戦争の真っ直中です。

 それを思うと、私は私で、いたたまれない気持になります。

 自分自身が親になって、自分の親たちにも青春らしい青春を味あわせてやりたかった、と思うからです。青春の仕上げが軍隊だなんて、ひどすぎます。古参兵の新兵いびり……しょうもない理由で往復ビンタを食らうのは日常茶飯事……理不尽なことにも疑問を持たないようにしつけられるわけです。戦場で人が殺せるように。

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近代化の陰に

Photo_22 日本のラン、石斛(せっこく)。今年もまた、その可憐な姿を見ることができました。

 私はときどき、明治からあの昭和の敗戦にかけて、日本という国が大国を目指さなかったら、拡張主義をとらなかったらどうなっていただろうか、と考えることがあります。

 富国強兵と殖産興業の旗を振ってしゃにむに近代化を成し遂げようと強権を発動した歴史が納得できません。

 いくら産業を興しても、大多数のまずしい日本の国民はその恩恵にあずかることが少なかったのではないでしょうか。むしろ犠牲が大きかったのでは。足尾鉱毒事件から水俣のチッソ、女工たちばかりか一般労働者の過酷な生活……労働争議も起こっています。

 米騒動が起きたのも、1度や2度ではありません。有名な1918年(大正7年)に始まるものは、大規模なものだけでも3度目で、同時に炭鉱暴動も引きおこされています。そして警官隊との衝突。軍隊による鎮圧。

 この年はまた、シベリア出兵のあった年です。すでに1月、居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦が派遣され、5月には本格的に出兵。最後の撤兵まで、あしかけ8年、戦費10億をかけ、3,000人を超える犠牲を払い、何の益もなく終わっています。

 居留民保護の名目は、ズデーテン・ドイツ人保護の名目でチェコに侵入したナチス・ドイツも使っています。いわば常套手段です。そしていたずらに戦費と生命が消費されるのは、イラクの米軍と同じ……。

 治安維持法成立以前にも、政府批判するものを捕らえる網はいくつもありましたし、警察組織もできあがっていました。民権派を取り締まるための讒謗律は、すでに1875年に公布されています。悪名高い特高課が警視庁に設けられたのは、大逆事件の翌年、1911年の8月です。

 そして治安維持法も2度の改定を経て、取り締まり対象をどんどん広げていき、1941年の改定では、とうとう予防拘禁制度も導入されました。

 こうした強権政治によって整備した法律網と体制のもとで、善男善女が見事に翼賛化していき、軍国少年・少女が育ちました。

 随筆家の岡部伊都子さんがよく書いていらっしゃる。

 1943年、出征間近の婚約者が、「こんな戦争間違っている。天皇陛下のためには死にたくない」と言ったとき、岡部さんは、「私だったら喜んで死ぬ」と答えたそうです。そして婚約者は沖縄で戦死。

 そんな加害者としての己を見つめて、岡部さんはこれまで、あの小さな体にむち打って、発言を続けてきたのです。

 その一方で、児玉誉士夫のような人が、上海で軍需物資を取り扱って不正を行い、巨万の富を得てました。父からも、よく聞いた話です。

 そしてこれが後の自由党結党資金になったとか。

 いつの世も、損するのは庶民ばかり。でも、そうさせてはいけませんね。

 

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廃刊に次ぐ廃刊、弾圧に次ぐ弾圧

Photo_21  1910年は、幸徳と管野の結婚に煩悶もんする寒村が赤旗事件による下獄を終えて帰京した年ですが、同時に、大逆事件に驚愕、衝撃を受けた年です。

 この年の12月、堺利彦は自宅に生活と運動の拠点として売文社を興し、ここで大杉も寒村も、大逆事件後の「冬の時代」をしのぎます。

 翌11年、1月24日、大逆事件被告12人の死刑が執行されます。このとき堺は悲憤やるかたなく酒をあおり、「杖をふるって軒灯をたたき毀しながら深夜の街上を彷徨した」といいます。

 上の写真はその売文社(自宅)前の堺一家。売文社設立時、娘の真柄は7歳です。

 堺利彦がルソーの『懺悔録』(または『告白録』)の抄訳を出したのもこの頃。ルソーの『告白録』といえば、中学生か高校生の私が、背伸びをして買い求め、読んではみたものの何か不消化に終わった思い出の本です。ディドロたち、百科全書学派の悪口も、ずいぶんとストレートに書いてありました。

 1912年(大正元年)、寒村は大杉と『近代思想』を創刊し、寄稿や広告にも恵まれ、順調に滑り出したようです。広告は、『実業の世界』、丸善、三越デパート、ライオン歯磨きなどがお得意さん。

 寄稿も、堺利彦を初めとして文人、才人がひしめいて、随筆からバーナード・ショーの翻訳、学問的評論、和歌までありました。若山牧水も歌を寄稿した一人ですが、近代思想に載った歌には牧水君の特色が出ていなかったように思う、とは寒村の言です。

 この平穏の生活に飽きたらず、「本性の謀反気がムクムク頭をもたげてじっとしていられ」ずに、寒村らは満2年で近代思想を廃刊にします。

 当時、第2次西園寺内閣が2個師団増設を強行に主張する陸軍のために倒れ、山県有朋を後ろ盾にした桂太郎が第3次桂内閣を組織しましたが、民衆はこれを藩閥の横暴と受けとめて、憲政擁護運動が起こっています。護憲運動の指導者は、政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らです。

  これには三井、岩崎(三菱)の2大財閥の争いも絡んでいて、三井が犬養毅、尾崎行雄ら政党勢力を援助していたと、寒村は伝えています。

 これに対し、桂首相は新党を作って悪あがきをしましたが、数万の群衆が国会を取り巻くにいたって総辞職を決意します。それも、このままでは内乱になる、と衆議院議長に諫められた上でやっと決心したこと。権力への執心、ひとかたならず、といったところです。

 議会では政府の弾劾がおこなわれ、院外では群衆と警官が衝突し、軍隊が出動しています。 

 桂の後を継いだ山本権兵衛内閣では、海軍高官と三井の重役連にからまる贈収賄疑獄、ジーメンス事件が起こって内閣不信任案が提出される一方で、群衆は4,000の警官と衝突。この時もまた、軍隊が出動。

 そうした世の動きを背景に、大杉と寒村は文芸雑誌の刊行を止め、労働運動の機関誌を出すことにします。

 1914年(大正3年)、第1次世界大戦が起こった直後に、月刊『平民新聞』が発行されます。が、初号から発禁。禁止の理由は「全紙面を通じて安寧秩序に有害だ」ということ。

 監視・妨害する警察とのいたちごっこを、寒村は、「もう平民新聞が合法的出版物なのは形式だけで、実際は秘密出版と少しも変わらない」と述べています。

 そして6号を出したところで月刊平民新聞も廃刊。

 次に、他の仲間も経営に加わり、平民新聞の性質を併せ持つ『近代思想』を復活させますが、これも初号を除き発禁の連続で、第4号で廃刊。

 週刊平民新聞、日刊平民新聞以来、廃刊に次ぐ廃刊、弾圧に次ぐ弾圧。それでも意気軒昂な寒村たちには驚くばかりです。でもいくら血気盛んとはいえ、実際のその胸中はどんなものだったでしょうか。

 藩閥、閨閥、政商、疑獄……権力と金力をほしいままにする、新政府発足時からの政権を担う人々とそれに連なる企業人、そして官僚。

 彼等は一体、ほんの一握りにも満たない寒村の仲間たちを、なぜそれほどまでに怖れたのでしょうか。

 

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平民新聞と日露戦争

 万朝報退社後、幸徳と堺のふたりは、寄付と貸与、演説会のあがりで資金を捻出して平民社をつくり、1903年(明治36年)11月15日、週刊の『平民新聞』が発刊されます。

 平民新聞は普通の新聞の2つ折りの大きさに、創刊号は12ページ、ふだんは8ページ、1部3銭5厘(この年の春、海軍造船廠の見習い職工として入った寒村の日給が25銭)で、創刊号は5.000部がたちまち売り切れて3,000部を増刷したといいます。

 毎号の社説は幸徳が書き、堺は編集長で紙面の製作と経営にあたりましたが、筆禍問題が起こったときのことを考えて、発行、編集の責任者に堺が署名し、幸徳は印刷人として署名したという話に、堺利彦の心意気と覚悟がうかがわれます。

 幸徳には老母があり自身も病弱ということから入獄させるのが忍びない、ということです。後年、この堺の心配りも無駄になってしまいます。

 ちなみに、田中正造の直訴文を起草したのがこの幸徳でした。

 この平民新聞ではさまざまな政治政策をとりあげて論評するだけでなく、ドイツ社会民主党やイタリア社会党等、各国の社会主義政党の動きもよく伝え、また幸徳や堺の翻訳物も連載していたようです。ことに幸徳秋水の格調高い漢文調の名文は強い感銘を与え、またその下に載った同じ筆者の皮肉で辛らつな寸評も呼び物であったといいます。

 創刊翌年の3月に筆禍事件で下獄した堺の『獄中生活』も好評を博していますが、寒村の語によれば、「平民新聞の記事は長短錯落し、硬軟調和して変化に富み、隅から隅まで活気と興趣にあふれていた」そうです。

Photo_11 日露戦争が迫りくる時代、寒村は横須賀海軍造船廠で見習い工(写真左)をしていましたから、自伝では昼夜兼行の日ごとに激しさを増す労働とそれに忍従する職工たちを描いています。

 曰く、「脚気を患っている多くの職工が青竹の杖にすがって、工廠の門をくぐる姿を見るのは珍しくなく……青ぶくれした生気のない顔が悩む足を投げ出して坐り仕事をしている。それをみると、幽界にさまよう死霊に出会ったような不気味さを観ぜずにはいられない」

 そうした中、戦争を目前にした1904年(明治17年)1月、上京して、堺、幸徳、安部磯雄、木下尚江、西川光二郎らの社会主義の演説会を初めて傍聴し、その場で社会主義協会に入会し、海軍工廠も辞めることになります。

 世の中は軍人、政治家はもとより宗教家、評論家まで、それこそ「猫も杓子」も主戦論を声高に叫んでいましたが、少数であっても非戦論を貫く人たちがいました。

 雨宮敬次郎という実業家も、「英、独、仏などは怜悧なものだ……外国を教唆して喧嘩さすことばかり考えている。」などと『実業世界』上で述べたそうです。

 そういえば、昨日の朝のTV、多分フジテレビでしょうが、アーミテージ前国務副長官がインタビューに答えて何か言っていました。(新聞を見ると、「報道2001 同盟軍最前線‥‥日本の危険度 石破茂VS小池晃」という番組のようです)

 確か、日本の問題だから、と前置きしながらも、日本人が(憲法9条ののことを)考えか始めたのはとても良いことだ、日本は車に乗るだけでなく、先頭切って走るべきだとか何とか。

  さて、寒村が社会主義協会に入会した翌月には日露戦争が始まりますが、この時の戦費については、以下のように記しています。

 戦争ついに起こるや、日本の議会は総額六億に達する軍事費と六千万円の増税を可決し、五月には更に戦費をまかなうために一千万ポンドの外債をロンドン市場に募り、しかもその条件はヨーロッパの弱小国たるエジプトやトルコよりも不利であったのみでなく、関税収入をもってこれが担保にあてたのである。(『寒村自伝』より)

  そういえば、今の世も久しく増税論議が喧しいのですが、まさか憲法を改悪した後の戦費調達を考えているのではないでしょうね!?

 平民新聞は第10号(1904年1月17日号)の巻頭に「吾人はあくまで戦争を非認す」とかかげて以来その主張は変わらなかったそうです。

 Photo_12 その年の夏、寒村は初めて堺利彦を訪ねて、服部浜次、鈴木秀男等と横浜平民結社を創立しました。 

(左の写真は横浜平民結社の同士。中列右より、服部浜次、鈴木秀男、寒村) 

そして11月16日には社会主義協会が禁止され、翌年1月29日、平民新聞は廃刊になります。

 

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谷中村滅亡史

Photo_3  

「明治政府悪政の記念日……準備あり組織ある資本家と政府との、共謀的罪悪を埋没せんがために、国法の名によって公行されし罪悪の日」と寒村が呼んだ1907年(明治40年)6月29日、土地収用法が適用された栃木県下都賀(しもつが)郡)谷中村(やなかむら)の強制破壊が始まりました。

  Photo_6 足尾銅山の鉱毒問題は、すでに明治14年に時の知事が渡良瀬川河流の魚類の販売と食用を禁じた頃には知られていたようです。そうした中、21年の大洪水で渡瀬川・利根川沿岸一帯は鉱毒によって田畑が覆われ、翌22年には非常な不作に見舞われます。

 (この洪水も、古川鉱業所の製錬用薪炭材の乱伐が招いたものといわれていますし、当然煙害も周辺地域に及んでいました。)

 さらには24年の大洪水に、ついに栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉の各25・26・12・2・7村(当時)の被害民一同は、連署を添えて政府に請願書を提出することになります。

 曰く、「速やかに鉱毒除害の道を講ぜよ、しからずんば寧ろ(むしろ)直ちに鉱業を停止せしめよ」と。

 この時田中正造が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を国会に提出して政府の答弁を求め、この鉱毒問題は初めて公のものとなりました。

 が、国会は時をおかずに解散。その後しばらくしてやっと答弁が公けにされます。

「……被害の原因確実ならず……試験調査中なり……一層鉱物の流出防止の準備をなせり。」とは、その後何十年にもわたって日本各地で繰り返されることになる、責任回避の弁の始まりでした。

 日清戦争後の富国強兵・殖産興業の政策を重視して一般農民が顧みられることがなかったとはいえ、その裏には時の権力者、農務大臣の陸奥宗光と足尾銅山を経営する古川市兵衛の姻戚関係があったことを『谷中村滅亡史』は伝えています。 

 かつての海援隊の一員、治外法権の撤廃に尽力した明治の元勲は、寒村の筆力の前には形無しです。(ただし、陸奥は寒村のこの著作が出る当時にはすでに死亡)

「そもそも足尾銅山の鉱毒問題の原因は、政府委員(昭和40年に再びこの鉱毒問題が持ち上がったときの経済企画庁長官藤山愛一郎以下の委員を指すと思われます)がみずから認めているように、『坑内から出てくる硫酸銅を含んだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ』ことにある。」

 鉱毒反対運動は官憲による弾圧を受け、被害農民は威嚇・脅迫はもとより、誘惑・買収等の懐柔策に翻弄されて事態の進展はみられず、1901年、田中正造は天皇直訴に踏み切ります。

Photo_8 左はその時の直訴状。

 これにより世論は沸騰しましたが、結局、鉱毒問題は治水問題にすりかえられ、最後の抵抗拠点、谷中村は、廃村、遊水池となったのです。

 現在、谷中村は「谷中湖」にその名をとどめていますが、ここは渡瀬遊水池の一部をなしているにすぎません。

 おもしろいのは、寒村がたびたび、資本家と政府の「共謀」的罪悪、という表現をしていることです。もともと「共謀」という語は一般的な普通名詞ですからあたりまえのことですが、すぐに、今問題の「共謀罪」を連想してしてします。

 寒村のいうこの類の共謀罪は、審議中の共謀罪法案の取り締まり対象には当然入っていないのでしょうね。

 

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寒村翁

Photo_5 荒畑寒村。

1887年に生まれ、1981年に没。 

 まだ16歳かそこらの年で社会運動に身を投じ、堺利彦に師事して「平民新聞」の編集陣に加わります。のびやかに(?)弾圧の時代を生き抜いて、じつに1世紀近い人生を全うしています。

 私が初めてその名を知ったのは中学生の頃、60年代前半だったと思います。

 新聞にインタビュー記事が連載されて何とはなしに読み始めたのですが、「今の社会党は腐ったうどん粉のようなものだ」という寒村さんの言葉がやけに頭に残りました。

 田中正造の願いで著した『谷中村滅亡史』は寒村さん20歳の処女作ですが、発刊と同時に発禁処分にされて日の目を見ずにいたところ、復刻されたのが56年後のことでした。

 手元にあるのは1970年の版ですが、そこにある1枚の写真Photo_7 に目が引かれます。

 明治20年代に端を発した足尾銅山の鉱毒問題から、田中正造の奔走空しく同40年に強制土地収用に至った、かつての谷中村にあった墓石の、復刻当時の写真(左)です。

 先日のオフ会の折、久しく忘れていた「荒畑寒村」の名を思い出したところ、若い方はご存じなかったので、1度お伝えしようと考えていました。

『寒村自伝』には、当時の社会主義運動の内幕と自身の波乱に富んだ人生が余すところなく描かれています。そのうち興味のあったところを少しずつ書いていこうと思います。

 

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匕首(あいくち)伝説という麻薬

 第一次世界大戦に敗れて自尊心をずたずたにされたドイツ国民の間でまことしやかに囁かれた神話、「匕首伝説Dolchstosslegende」。

第一次世界大戦は同盟国側を見るだけでも、ドイツのみならずオーストリア‐ハンガリー帝国、トルコ、ブルガリア等のそれぞれの国内外の事情が絡んで複雑な様相を呈しますが、ごく狭い範囲に限って簡単に流れを追ってみます。
 
 開戦当初、ドイツは西部戦線に兵力を集中しましたが、14年のマルヌの戦いで破竹の進撃が食い止められ、フランス軍との戦線全域にわたって泥沼の塹壕戦に陥り、以後膠着状態が続きます。さらに17年の無制限潜水艦戦の実行でアメリカの参戦を呼び、停滞した西部戦線へのアメリカ軍の投入でドイツは完敗。18年春からの大攻勢も失敗に帰し、夏には戦勝の望みも断たれてしまいます。
 大西洋は英仏艦隊に封鎖されましたから、ドイツは国民生活と軍需品の調達の双方で大きな打撃を被ります。15年からは食料の切符制度も始まり、総動員態勢下の窮乏生活に、国民の間では、次第に厭戦気分が広がっていきます。
 一方、ティルピッツ海相によって増強された海軍は、16年のユトランド海戦以来2年間閉じこめられて港外に出ることがなかったところに、18年10月29日、イギリス海軍への自殺的な特攻作戦の出撃命令が司令部から出されます。ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵たちはこれを拒絶して反乱を起こしますが、11月3日には、有名なキール軍港の水兵・兵士によるデモが発生し、全国各地に波及していきます。
 ここから一気に大衆蜂起、軍隊の瓦解あるいは無抵抗、皇帝退位、帝政崩壊、ワイマール共和国誕生というように、ドイツ革命と言われる一連の動きが始まることになります。

 11月9日、皇帝の自発的退位の知らせを待つ中で、正午頃、社会民主党のエーベルトは、「帝国憲法に従って」首相のマックス・フォン・バーデン公から宰相の地位を引き継ぎます。午後2時、社会民主党幹部のシャイデマンは押し寄せてきた労働者と兵士から議事堂前の大衆に演説をするように求められ、しかもその時、スパルタクス団のリープクネヒトが宮殿のバルコニーから「社会主義共和国」の宣言をしようとしているとの知らせを受け、慌てて独断で共和国宣言をしてしまいます。ワイマール共和国の誕生です。(ちなみに、この71年後の1989年11月9日に、第二次世界大戦後の冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩壊します。これは偶然の一致なのでしょうか?)

 革命後、ルーデンドルフをはじめとする旧将校たちは、ドイツが敗北したのは、軍隊が敵に敗れたからではなく、帝国政府及び民間人が軍隊を支持せず、いわば匕首をもって背後から軍隊に切りつけたからである、と主張し、一般に流布していきます。またこれには、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後からの一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと導いた、という解釈もありました。
 
 この匕首伝説については、1925年の「匕首事件」の訴訟の際に多くの関係者が証人として喚問されています。その中で、革命直前の11月6日に、社会民主党幹部及び労働組合総委員長代表と会見した参謀本部次長グレーナーは、「革命のために努力していると思われるような言葉は誰からもひと言も発せられず、反対にいかにしたならば王制を維持しうるかということが話題になりました」と証言しています。

 歴史の一断面を凸レンズで、それも歪んだ凸レンズで拡大したこのデマゴーグが、なぜ、かなりな知識人にまで簡単に受けいれられてしまったのでしょうか。

「匕首伝説」が生まれた時代の空気と現代日本の閉塞感にtoxandoriaさんが共通するものを見いだして、すでに昨年5月にご自身のブログで語られています。

以下
toxandoriaさんの言葉を、一部ですが引用します。

 戦後賠償問題を始めとする「ヴェルサイユ条約」の重荷がドイツ国民の上に圧し掛か駆り始めると、次第にドイツ国民の間に共産主義者に対する『匕首(あいくち)伝説』(共産主義者の卑怯な背後からの匕首での一突きがドイツを不幸に陥れたというルサンチマン/一種の八つ当たりor人身御供を求める恨みの感情?)と呼ばれた怨念と復讐の感情が広がります。特に、このルサンチマン(ressentiment)を強く意識したのが、時代の先行きを悲観した都市部に住む中産市民層でした。慧眼にも、ここに目をつけたのがナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首ヒトラーです。

 日本社会のルサンチマンは、もはや相当に重態のようです。そして、このようなやり場がない怨念と暗い情念の渦の中にとり込まれた都市部の中産層や若者たちが、唯一、希望を託せるのが、他でもないワンフレーズ・ポリティクス型の稀代のポピュリスト政治家たち、すなわち小泉純一郎、石原慎太郎、安部晋三なのです。そこで象徴的な社会操作概念(メコネサンス)として登場するのが靖国神社参拝であり、愛国心であり、軍事国体論なのです。ルサンチマンへの反動として、これらは都市部の中産層や若者たちの多くが受け入れ易い、未来への希望の代償となっているのです。かくして、日本の社会は、やり場がない怨念のルサンチマンに侵食されながら、右傾化への道を直走っているのです。

 以上引用終わり

 ルサンチマンか! 「押しつけ憲法」神話も、やはりルサンチマンの充満している空気の中で熟成・拡散されたのでしょうか。ルサンチマンに処方された麻薬のように作用して、しばし現実の痛みを忘れさせてくれるのがこの神話ですから。


 旧憲法下で特権を享受してきた人たちは、現憲法の下で、さぞルサンチマンを抱え込んだことでしょうね。でも問題は、これまで現憲法下で保護されてきた人たちが、ここに来て、生きにくさを抱えてルサンチマンの心を募らせていくことです。日本国憲法によって自分が保護されてきたことに目を向けようとせずに、逆に、「押しつけ憲法」神話にのって、自分の頭で考えることを忘れてしまうことです。

 このルサンチマンの呪縛をいかにして解くのか、痛い目に遭わないと分からない、というのでは遅すぎますね。大きな痛い目ではなく、小さな痛い目を味わううちに気づいてと、祈るような気持です。


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ムラの一人前、軍隊の一人前

 成人式、センター試験と若い人の話題が続くついでに、いつかお話しした子供がどこでどうして大人になっていくのか、をちょっと考えてみました。
 
 アリエスの『子供の誕生』によると、小さな人(こども)と大きな人(大人)のごちゃ混ぜ社会のような中世ヨーロッパから、ブルジョアジーと呼ばれる中産階級が歴史に登場する時代になって、こどもは単なる大人の小さな存在ではなく、それ自体独自の価値を持つ存在であるという考えが生まれ、そこから避妊の考えがあらわれ、こどもを教育の対象とする態度が生じたといいます。
 
 一方日本では同時期、百姓身分が人口の9割を占め、村落に居住し、幕藩体制下で「郷村条目」の義務を完遂すべく連帯責任を負わされていました。
 ですから、連帯責任をまっとうできないものは、嬰児なら間引き、成長しては勘当、旧離(血縁者に欠落人が出ると目上の者が届け出て人別帳よりはずした)をしましたが、一人前の大人になるとは、そうしたムラの構成員としての一人前を意味するわけです。
 その一人前を育てるものが、「若者組」、「ワローグミ」等々と呼ばれる社会的訓練の場です。私の住む町からさほど遠くない漁村部では、確か「水難救助組合」のような名前で呼ばれていました。屈強な若者たちの村での役目のひとつがうかがわれますが、遊日願い、祭礼願いを村役人に出し、芝居興行を企画するのも若者組の仕事でした。
 エネルギーのありあまった彼らは時には禁止の対象となり、一揆や打ちこわしの主力であり、倹約令下であっても祭礼、芝居興行の挙行を主張して、その費用は高持ちが負担しろ、と要求する、ときには困った存在でした。 
 
 昔も今も体制の枠におさまりきらない若者の姿が見えてきます。その若者たちを体制内に組み込もうとしたのが、明治新政府の「学制」に始まる教育制度でしょうし、学制の翌年1873年に発令された「徴兵令」に始まる徴兵制でしょう。 
 しかも徴兵令の目的は、もちろん、欧米列強に範をとった軍事力整備ですが、発足して間もない新政府を悩ます数々の反政府行動への対処の意味が大きかったようです。しかも度々改正されています。
 当初はさまざまな免役条項が存在していましたが、次第にそれが制限され、国内の支配体制が整い、対外戦争が日程に上がってくると、国民皆兵の原理が貫かれていくことになります。
 そうなると、多種多様な若者たちも、軍隊の厳しい階級制度のもとで人をも殺せる人間になって、はじめて一人前とされた、と考えられます。

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