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死刑廃止演説から考える――まとめ

 「ムシュウ・ド・パリ」とはパリの首切り役人の別名だと聞いたら、今でも多い、花の都パリに憧れる人たちは驚くだろうか。

 自らは、「有罪判決執行者」と称したが、世間はブロー・ド・パリ(パリの処刑人)として怖れ蔑んだ

 ギロチンが登場するまで処刑方法も様々で、犯罪の種類、罪人の社会的地位によって変わった。笞刑や切除刑も処刑人がとり行い、また拷問も刑罰の1つとして認められていた。

 ムシュウ・ド・パリをはじめとして各地にそれぞれいた処刑人は世襲ではなかったが、処刑人の家族に生まれたら、他の職業を選ぶのは非常に難しいのが実情だった。

 7代続くムシュウ・ド・パリの家系サンソンの初代は端整な顔立ちの王の兵士だったが、運命のいたずらか、たまたま処刑人の娘に恋をして連隊を追われ、助手を務めた後に義父の跡を継いだ。助手として初めて罪人に笞刑を加えるよう命じられたとき、「気絶し……群衆の嘲笑を浴びた」と公式記録に書かれている(そうだ)。

 が同時にサンソン家の人々は、仕事柄接する死体をもとに外科学・薬学の本を求めて骨や筋肉や関節の接合状態を研究し、腕の良い医者として金持ちからは高い治療費を取り、貧乏人は無料で診療した。そうしたことは、己の職業に対する嫌悪感・罪悪感を薄める手だてのひとつにもなっただろう。

 規則正しく敬虔な日々を送り、自分の務めを神の御心として受けいれ、王の名の下に正義を実行し、祖国と同胞を守る尊敬すべき職業であると自ら考えることで、どうにか心の均衡を保つのだ。

 一方処刑そのものは当時において大きな娯楽そのものであり、注目される罪人の場合は、処刑台のおかれている広場・付近の道路のみならず、そこに面した窓という窓から果ては屋根まで、人がいっぱいだったという。

 罪人が処刑台に上ると拍手喝采をし、処刑が行われている間、街頭の売り子たちは犠牲者の似顔絵にその犯罪物語のパンフレットを添えて、売って廻った。 

 国王の暗殺を試みた男の処刑のときには、ムシュウ・ド・パリはぐでんぐでんに酔っぱらい、酒で勇気を奮い立てようとした。これを手伝う叔父であるランスの処刑人は、ガクガク震えながら犠牲者の悲鳴に懸命に耳を塞いで刑を執行。苦悶の絶叫の中で仕事を終えた彼は、この出来事から2度と立ち上がることができなかった。

 すさまじい光景を4時間(なんとひとりの罪人にこれだけの時間をかけて、残虐極まりない刑が与えられたのだ)にわたって眺めたものの中には、かのカサノヴァも、また彼と同席した貴婦人3人に1人の若い紳士もいた。

 パリの高等法院が下した信じられないほど残忍な処刑方法は、犯罪者のみならず処刑人まで再起不能になるほど痛めつけることになる。

 こうして貴婦人を初めとして血を好んだ民衆が、処刑を大いに楽しみながらも、それを執行するブロー・ド・パリとその助手たちを毛嫌いし、目に触れることさえ嫌がったという矛盾

 人は、血に飢えた心性の卑しさを心のどこかで感じているからこそ、処刑人を汚らわしい、自分たちとは異なる世界の住人としてとらえて安心できたのかもしれないが。

 死刑に際し、誰にも平等にギロチンを用いるようになったのが、革命期の1792年のこと。1870年には唯一ムシュウ・ド・パリを除いて全ての処刑人が廃止され、最後に公衆の前で処刑が行われたのは1939年6月、ベルサイユの裁判所前でのことだった。

「裁判所を見下ろす部屋という部屋、バルコニーというバルコニー、窓という窓は、この見もののために賃貸されていた」。

 これはフランスのあらゆる新聞に掲載されて非常な反響を呼び、以後公開処刑を禁止する法令が発せられることになった。

 1952年までには、世界で21カ国が死刑を廃止していた。

 フランスは1953年から66年にかけて22回ギロチンを使い、その都度是非論がおこり、討論が闘われた。またこれとは別にアルジェリア戦争のあいだには、国家の安全に関する理由等で処刑されるものも多かった。

 その後もフランスは、1981年に廃止するまで何度か断頭台へ犯罪者を送った。

  死刑廃止は欧州連合のメンバーになるための条件でもある。

 現在、 法律上、事実上の死刑廃止国の合計は129カ国。存置国は68カ国

 といったことをママさんはみんなに話した。

 最後に、

「まるで芝居を見るように処刑を楽しんだ人たちのおぞましさ、握手を求められても応じず、己の汚れた手でけっして一般の人たちに触れることがなかった処刑人の罪悪感。このどちらも、私たちには耐えられません。

 私たちの心のありようは、100年や200年前に生きた人たちとは異なっていますし、死刑も人の目の届かないところで行われています。血を見て激昂する民衆のぞっとするような姿はありません。

 自ら手を下さない裁定に示された人間の残酷さは、今、薄められてはいますが、なくなったわけではありません。私たちはこれを克服する必要があるのではないでしょうか」と語った。


 なお、玲奈ちゃんの知らせにあったフランス最後の公開処刑の写真について。

 写真で見る限り、見物人が意外と少ないと思われるかも知れませんが、あまりの評判に、早朝に行われる処刑に備えて真夜中以後、警官、民兵、警視庁の刑事などからなる特別警護団が、裁判所と監獄に通じる諸街路を遮断。多数の客が陣取っていた近くのカフェからの眺望は、真ん前に駐車された大きなトラックに遮られていたということです。

 一般的に、時代が下るにつれて処刑の場所は町の中心から外れに、時間も昼間から早朝にと変わっていきましたが、この最後の公開場所はベルサイユの裁判所前、6月17日の朝、5時直前のことでした。

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