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甲種合格の籤逃れ

 普通、初年兵が入隊するのは1月の10日ですが、『2.26事件と郷土兵』の証言をみていると、異なる日付が散見されます。

 そのうち、1月20日に入隊したひとりが、「これは甲種合格の籤逃れで入営を免れたが、中隊の方に欠員が生じたので補充の形で入隊を命ぜられたためである。」と語っています。

 「徴兵と籤」の意外な取り合わせに初めは驚きましたが、これが当時の若者の理想だったようです。

 男と生まれたからには甲種合格したい。でもそれでは現役徴集される可能性が高い。願わくば、甲種合格して、籤にあたりませんように! といったところでしょうか。

 日本の旧軍の性格については、さまざまなところで証言が見受けられます。

「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓によってどれだけ多くの犠牲者が出たか、戦死者の過半数は戦闘死ではなく餓死・病死である、下級兵士が戦場をはいずり回る間、高級将校たちは安全なところで酒池肉林等々の他この『2.26事件と郷土兵』の中にも、「終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ない」という言葉がみられます。

 そもそも、戦争の大義とか作戦自体がおかしかったのですから。

 E0049842_15452555 ハムニダさん所でみた軍人コスプレのこの方は、そんな事情を知ってか知らずか。

 ご存じであれば、まあ、勝手におやりください。でも、他の人まで道連れにしないでくださいね、私はごめんです、と言いたいです。 

 さて、明治以来の徴兵令は、1927年に兵役法が公布されたことで廃止されました。

 その結果、男子は20歳になると徴兵検査を義務づけられ、判定結果は「甲種」「第1乙種」「第2乙種」「丙種」「丁種」と分類されて、「丁種」以外は連隊区司令部の兵役原簿に記入保管されました。

 この原簿から誰を召集するかは連隊区司令部の権限で、1939年までは、甲種、乙種の合格者の中から必要な人数が集められました。

 父は170cmを超えた、当時としては珍しいほど大柄で健康そうな男子でしたから、もちろん甲種合格でした。「優秀な帝国臣民」と認定されたわけです。

 籤に当たって10日に入隊したのか、それともひとまず籤で逃れて後日入隊したのかどうしたのか分かりません。

(が、ともかくも1936年2月26日に、父は第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊)にいたのですが、歩兵第3連隊も全ての中隊が事件に参加したわけではなく、当日の夜、決起将校が週番指令をとっていた中隊に限られています。)

 それはさておきこの籤ですが、引くのは本人ではなかったということです。自分の運命が他の人の掌中にあったのも皮肉なものですが。

 ところが、それに承知しなかった人たちがいたのです。

 連隊区司令部では金品と引き換えに原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正で召集を免れた人たちです。父の生家も、けっして貧しくはない農家でしたが、そんなこと考えもしなかったのかもしれません。

 召集を逃れたものの職業をみると、軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く、その他配給業務に携わる幹部料理屋の主人群を抜く知名人であったといいます。

 こうした人たちが、いわば戦時中の勝ち組、といったところ。その他大勢の負け組は貧乏くじを引いたわけです。

 そんな現状を揶揄した替え歌がこれです。

  世の中は に に ヤミに顔
    官に尾を振る ポテやくざ
  真正面(まとも)じゃ末成(うらな)りネエ 青びょうたん 
    水でふくれて 死ぬばかり

 星は陸軍、碇は海軍、ヤミはヤミ商人やブローカー達、軍需景気で儲けた人や会社の重役、顔は、その筋の顔きき。

「さのさ節」の替え歌ということですが、「ネエ、さのさ」で終わるこの歌のメロディーは覚えていません。父が懐メロ番組でよく聞いていましたが。

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コメント

祖父は当時,平凡な一巡査だったため,「顔きき」の部類にはなれなかったようで,45年の春に長男の伯父が無理矢理甲種で徴兵された際も手出しが出なかったそうです。

もっとも,あとで伯父が脱走したという話を聞いた時にはニヤリと笑ったという話を親父から聞きました。完全に軍国少年へ洗脳されていた旧制中学生の親父はその意味が新制大学へ入るまで分からなかったそうです。

敗戦直前のある公務員の家庭の,一つの風景でした。

投稿: kaetzchen | 2006年8月30日 (水) 13時07分

kaetzchenさん、こんにちわ。
 ニヤリと笑ったとは、いいですねえ。
 4年間の兵役を終えて帰ってきた父は、今度召集されたら命はないぞ、と考えて上海に仕事を見つけ、終戦はそちらで迎えています。命拾いをしたわけで、私が今あるのもそのおかげです。

投稿: とむ丸 | 2006年8月30日 (水) 13時27分

とむ丸さん、こんにちは。

> 下級兵士が戦場をはいずり回る間、高級将校たちは安全なところで酒池肉林等々

既に個人となった大叔父や他の軍隊経験者から、これに類する話はたびたび聞きました。
闇屋に軍需物資を横流ししてボロ儲け、なんて話も枚挙にいとまがないようですね。

かつて少年軍属であった父は「軍隊はデカイ官僚組織に過ぎない」「学歴とコネが徹底的にモノをいう世界」とつねづね言っています。
軍隊をヒロイックなもの格好いいものと思うのは絶対に間違いだと思います。

投稿: 喜八 | 2006年8月30日 (水) 13時46分

喜八さん、こんにちわ。
 軍隊が、社会的上昇の一手段だったんですよね。
 いつの時代でも、うまい汁を察知する嗅覚の鋭い人間がいるもので、そんな人に限って己の身は安全なところに置き、正義とか愛国心とかを声高に叫んだりして。

投稿: とむ丸 | 2006年8月30日 (水) 14時40分

家が貧しかった私の父方の祖父は、三度も招集されたそうです。運良く三度とも生還することができたのですが、祖父が軍隊で体験したであろうことを想像すると、胸が詰まる思いです。

敗戦前は軍隊が社会的上昇の一手段だったというのは悲しい事実ですね。祖父の従弟は、貧しさから抜け出したいという意欲と、当時の軍国主義的な雰囲気とに流されて軍隊に志願しかけたそうです。それをうちの祖父がタコ殴りにして阻止したそうですが。その時、祖父は一度招集されてから帰った来たときだったそうですから、きっと軍隊で自分が経験したことを従弟にはさせたくなかったんだと思います。

投稿: ハムニダ薫 | 2006年8月30日 (水) 14時51分

ハムニダさん、あなたのところにもそんな話しがあったんですね。
それが当時の内情を知る人の本音ですよね。本来2年ですむ兵役を父が4年もいかされたのは2.26に参加したせいですが、そのあとも召集された人はいくらでもいるようです。

投稿: とむ丸 | 2006年8月30日 (水) 15時12分

とむ丸さん,こんにちは。ついでに言うと,次男の伯父(京都在住)は特攻隊へ志願したのは良いのですけど,エンジンの不調で先日の米国の飛行機事故よろしく海へ墜落して,不名誉の帰還となりました(笑) 敗戦一ヶ月前の暑い夏の日だったそうです。軍需工場でゼロ戦を作らされていた親父は,伯父にお前のせいで戦闘機が落ちたと食って掛かられたとか。

それにしても,とむ丸さんのお父さんはまるで「上海バンスキング」に出てくる「上海ゴロ」ですね。長崎県上海市に留まった方が安全だったというのは皮肉というか何というか。兵役に4年も行かされたせいで一種の無罪放免とされたのかは分かりませんけれど。

今でもアメリカでは軍隊に入ることが社会上昇のための手段になっていたりします。訳も分からずに日本やイラクへ来て人殺しをしている彼らは命と引き換えに故郷の家族へ大金を送金し……。

投稿: kaetzchen | 2006年8月30日 (水) 19時20分

喜八様こんばんは
>「軍隊はデカイ官僚組織に過ぎない」「学歴とコネが徹底的にモノをいう世界」
 最近華氏451度さんに読まされた「軍旗はためく下に」の五味川純平の後書きに、軍隊というのは特別な場所ではなく、この社会の縮図に過ぎない、と書かれていたのが印象的でした。
 小さい頃は何となく規律のしっかりした美しい組織のように思っていて、大人になると、なんのことはない、世の中のいやらしさをそのまま持ち込んだ社会。
 最近は、日常ならちょっとした地位の違いがあっても常識が働くからブレーキがかかるところを、軍隊という徹底的な力の差があるところでは、人間のいやらしさが極限まで増幅される世界だということがわかってきました。私などでもまだまだ「戦争を知らない」ということだと思います。

投稿: luxemburg | 2006年8月30日 (水) 22時14分

kaetzchenさん、全然ちがう。でも確かに、上海に留まっていた方が安全だったのかもしれません。

luxemburgさん、軍隊という徹底的な力の差があるところでは、人間のいやらしさが極限まで増幅される世界だ、というのはほんとうでしょうね。

投稿: とむ丸 | 2006年8月30日 (水) 22時34分

で(ってほとんどこのブログへのストーカーと化していますが)、図上演習とか参謀たちがやるじゃないですか、模型を配置して戦力を考慮して、勝敗のシミュレーションを。
 やってみて「負け」とか出ると、「今のはおかしい、向こうは士気が低いはずだから、戦力に0.3をかけろ」なんて言い出して、勝つまでやり直すんですが、こういうのってあらかじめ答えを決めているだけの思考方法で、我々も小学校の算数などで「きれいな答え」が出なければやり直したでしょう?どこか現実離れしてるんですね。国によっては実際にコップなどを持ってこさせて、それを計って、現実の容積を出す。出るのはきれいな答えでもあらかじめ決まった答えでもないんだけど、現実を知るための道具として勉強をとらえてたりする。なんというか、ファインマン流にいうと途上国型の教育なんでしょうね。

投稿: luxemburg | 2006年8月30日 (水) 23時06分

 ああ、あれは勝敗のシミュレーションをしているんですか? すみません、女性はそっちの方面にはあまり興味がないものですから。
 そういえば、自治体がなにかプロジェクトを実施するときシミュレーションをしてそろばんはじきますが、あれがよく外れますよね。それでたいていの場合赤字決算となっています。それも同じようなことをしているのでしょうね。
 実際的な教育といえば、遠山啓さんが始めた水道方式があります。我が家の上の子も横浜にいたときは水道方式で算数を習ったのですが、地方に行くと、とくに校長あたりがこれを目の敵にしているのに驚きましたねえ。

投稿: とむ丸 | 2006年8月30日 (水) 23時24分

甲種合格……という言葉で、つい父のことを思い出しました。彼は敗戦前に成人しているのですが、背が低い(160センチぐらいだったので、当時としても小さかったのでしょう。何せ母親の方が背が高かったのです)上、強度の近眼で体も丈夫でなく「丙種」か「第二乙種」だったそうです。既に故人ですから、この情報は又聞きですけれども。それでも1945年の初夏あたりに徴兵され、「僕なんかまで駆り出すようじゃあ、日本もおしまいだなあ……。この先、どうなるんだろう」と呟いたという話を、親戚の年寄りから聞いたことがあります。ドサクサのうちに戦争が終わり、実際には戦場を体験していなかったようですが……。もうひとつ、甲種合格ではなかったので身内は肩身の狭い思いをした、という話も年寄りから聞きました。そういう時代だったのだな……と、ふと思います。

投稿: 華氏451度 | 2006年8月31日 (木) 01時49分

 兵隊にどれだけ適しているか、それでランク付けする、そういう時代だったのかとあらためて思いました。
 ということは、子供を産まなかった女性も、きっと肩身の狭い思いをしたのでしょうね。家制度の中で跡継ぎを産まないということに加え、将来兵士となる子を産まないという二重の意味で。

投稿: とむ丸 | 2006年8月31日 (木) 09時46分

古い資料も味わい深くまとめちゃいますね(^^)
リアリティがあるのは身近な祖父、父の世界だからでしょうか?
ふと、亡父の顔が浮かんできます・・・年のせいでしょうね・・・
いかんいかん(苦笑)
ではでは。

投稿: こば☆ふみ | 2006年8月31日 (木) 23時21分

こば☆ふみさん、おはようございます。
 歳のせいか、私もこの頃親のことを思い出すことが多くなりました。もう一度、声を聞きたい……なんて。

投稿: とむ丸 | 2006年9月 1日 (金) 08時26分

戦争体験を転載させて頂いているzeroko2006です。
大変に失礼しました。
お名前を書かなかったのはうっかりミス、
タイトルをちょっと変えたのはその方が人目につくかなと考えたからで、
他意はありませんでした。

さっそくお名前を明記し、タイトルも直しておきました。
今後はこういう不手際がないようにしますので、
これからもよろしくお願い致します。

投稿: zeroko2006 | 2006年9月15日 (金) 12時18分

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