皇国史観の唱道者、平泉澄に「歴史がない」と決めつけられて豚と同列に置かれ、それを信奉するもの達の捨て石にされた「百姓」たち。
ところが18、19世紀、江戸の経済システムの中で生産力を発展させていった百姓の中から、巨大な民衆運動が発生しているのです。
「文政六年一千七ヵ村国訴」とよばれるものがその代表で、摂津の国と河内国2ヵ国、合わせて1007ヵ村を代表して、50名の「惣代」(村役人)が郡と国の境界を越えて集まり、そろって大坂町奉行所へ、畿内の百姓が生産した綿花を自由に販売することを求めて訴え出ました。
この時、幕府領と大名領、旗本領が入り交じった、その境界を越えて庄屋達が郡全体で集まり(郡中寄り合い)「郡中惣代」を選ぶ、あるいは領主ごとにそれぞれ「寄り合い」を開いて惣代(「惣代庄屋)を選ぶという2つの方法で、自分たちの代表およそ50人を大坂の寄り合いに送り出したのが1823年4月のこと。
惣代によって運動戦略が発案されて地域によって異なる利害関係も巧みに調整され、1000ヵ村以上の村々の結束が持続されるなかで訴願項目がまとめられます。
結果、7月には勝訴します。
1854年(安政元)の国訴では摂津・河内1086ヵ村が連合して郡から選ばれた惣代たちが集まって、そこからさらに代表を選び、いわば惣代の惣代54名が訴願運動にあたりました。
1864年には、摂津・河内の1262ヵ村の連合から惣代の惣代たちが3ヵ月にわたって訴願運動を展開。
こうした国訴では、惣代には村々から「頼み証文」が差し出され、そこでいかなる問題が発生しようとも、村方が惣代とともに共同責任をとることを保証しています。
「頼み証文」にはかなりの額の惣代の必要経費まで規定して、惣代の立て替えに対しては「利息」まできちんと支払われましたから、見事な代議システムですよね。
ついでにいいますと、一般的に持たれている「竹やり、むしろ旗」という百姓一揆は、どうも実際とはかけ離れていたようです。竹槍を持ったのはむしろ先の戦争中、というところがおもしろいところ。
一揆参加者は、「あえて人命をそこなう得物はもたず」として、日常の農耕で使う鎌や鍬、鋤、鉈(なた)等を持ったといいます。つまり、江戸期を通じて百姓一揆は、けっして武装蜂起を意味したものではなかった、と研究者は言っています。
すごいのは、天保の改革直前の1840年に庄内藩で起きた、三方領地替え反対の一揆です。
3つの大名の領地を順送りに移し替える費用を押しつけられた百姓達が、各所で数万人規模の大集会(大寄)を開き、十数人から数十人の代表が江戸へ出て、幕府要人や藩主たちに直訴したのです。
大寄合の参加は高札によって呼びかけられ、集まる際には、畑作物をむやみに踏み散らかすなとか、役人には雑言は言うな、等といった注意点が明確に定められていました。
結局水野忠邦の反対はあったものの、翌年には三方領地替えは撤回され、一揆勢は軽い処分ですみました。
まさに、百姓が幕府の転封政策に影響を及ばし、歴史をつくったわけです。
この一揆については、その後一揆指導者の手で記録となる約80シーンの絵巻物『夢の浮橋』が作られていますから、当時のありさまを見ることができます。
このときの一揆もよく統制の取れたもので、百姓は木綿や紙でできた村の旗の下に集まり、村ごとに参加していました。
ちょっと分かりにくいのですが、大かがり火の横にひときわ高い、先端にひょうたんを逆さにつけた棒が立っています。これが一揆の「目印の旗」。
その他には「北晨」と書かれた大旗、大太鼓が見えます。別本にはホラ貝の持ち手も描かれているものがあるとか。
「目印の旗」が動くときは「惣つぼみ」で、一揆勢はまん中に集まってまとまる。「北晨の大旗」が動くと「人数繰り出し」で一揆勢は広がってゆく。法螺貝が鳴るときは、最初の場所にまとまる。大太鼓が鳴ると「鬨の声」、「ヤーヤー」をあげる。また、列を正しているときは、組々の旗の下にまとまる。
真ん中の広場は「催合」といって、「大評議」(全体会議)を行い、村々から1~2名の代表者が大旗の下に集まるところ等々。
スローガンを記した旗も登場し、掛詞を巧みに使うなど機知に富み、デザイン化されています。
左は、その中の1つで、西瓜の熟した絵が描かれています(「熟す」は方言で「すわる」といい、これにより、転封に反対する意を表しているそうです)。
一揆勢が江戸で訴状を提出するのは、老中や奉行、藩主に対してですが、この時、籠にすがって行うので、「かご訴」と呼ばれ、これにも2、3人ずつ組になってするという「作法」がちゃんとありました。
傑作なのは、かご訴をした大名・旗本からご馳走になることさえあったそうで、くりかえしかご訴を行ったにもかかわらず、罰せられたものはこの時ひとりもいなかったとか。
いわば、合法的な一揆といえるのでしょう。目からうろこの江戸一揆像です。
おまけに、当時、村役人たちが公用で奉行所に出張するときに利用した「郷宿」(ごうやど)では、訴願などの文書を作成する指導や代筆、奉行所への取り次ぎまでも仕事にし、料金も気安く依頼できる安いものでした。
こうした民衆のエネルギー、英知を結集した百姓たちの高度に組織化された運動があったことは、百姓には歴史がないどころか、百姓自身が歴史をつくってきたことを示しています。
勝てば官軍で、江戸の政治と社会をことさら暗黒に描いたのは、明治新政府であったようです。その延長で、百姓もことさら暗愚に色づけされたかもしれません。
また新政府をつくった、いわゆる「元勲」たちを輩出した西南雄藩は大きな家臣団を擁して民力を支配していましたから、江戸から明治へと時代が変わったとき、あたりまえのごとくその構図を持ち込んだことは十分考えられます。
それにしても、大結集して自らの意思を権力側に訴えた民衆は、幕藩体制の崩壊後いつのまにか、知恵あるオオカミから牙を抜かれた従順なヒツジになったのはなぜでしょうか。
大同団結して要求を貫こうとしていた民衆が、一人ひとりバラバラの帝国臣民となって帝国の支配システムの中に組み込まれてしまったのは、どうしてでしょうか。
農民の力を結集した江戸の一揆の記憶は、秩父事件をはじめとする一連の騒擾、足尾銅山鉱毒事件あたりで途切れてしまいましたし、鉱毒事件の際の田中正造の天皇への直訴は、最後のかご訴と考えることもできます。
秩父事件は、武装蜂起した点で江戸後期の合法的な体制内変革とは異なってきますが、事件の主人公たちは、蜂起の前に重ねて請願運動をしていたことを忘れてはいけないでしょう。
合法的な解決の道を閉ざされて蜂起した民衆を圧倒的な力で抑えつけた明治の圧政は、江戸後期の幕藩体制を超える酷さで迫ってきます。
いわゆる「仁政」を求めて決起した農民たちに、近代国家への脱皮を図る政府があくまでも契約や法律に則った姿勢を貫いたからです。
また当時、調停手続きあたる「勧解」が、「身代限り」(今にいう破産)処分以上に行われていたという事実もあります。が、「富国強兵」を国是とする政府が、厳しい税負担を国民に強いたことは見逃せません。
ことに秩父事件の起こる80年代は朝鮮を巡って清国とも対立が深まる一方で、ベトナムやカンボジアがフランスの保護下に入るなど、東アジアへの列強進出が露わになっていますから、民をさしおいても、強兵に力を入れたことでしょう。
そしてこの強兵政策がその後の日本の対外侵略へと繋がりました。
ところがその前に、まず軍隊は、国内の農民騒擾に出動しているわけです。軍備増強に重税を課せられ、その上鎮圧に兵力で臨まれては、農民は踏んだり蹴ったり、というところ。
やはり、請願段階でなにか解決策を探るべきだったのではないか、前の時代のように借金棒引きとはいかなくとも、不況下で窮迫する農民に対する貸し金利子率を下げたり制限を設けたりするのは、人に武器を向けることにくらべたら実に簡単なことではないか、と思ってしまいます。
勧解手続による「調和」(今でいう「和解」)がどこまで実施されていたのかは分かりませんが、とにかく農民たちは万策尽きて決起し、軍隊の力で鎮圧され、敗走後は厳罰が下されたわけです。
せめて、警官隊と交戦する決起初期の段階で政府側が話し合いの姿勢を持って現場に直行していれば、事態は違う展開を迎えたのではないか、とついつい考えてしまいます。当時は同じような事件が後を絶たなかったため、そんなこといちいちしていられない、という声もあがりそうですが、それは政治の放棄というものでしょう。
明治政府はこの戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられたといいますから、もしかしたら
ヤスクニに祀られているのでしょうか。
さて、手元を見ると、「障害者施設補助金」を「一律25%削減」の文字が新聞紙面に見えます。
身体・知的・精神障害者の小規模通所授産施設などを対象とする、今年10月~来年3月の国庫補助金を一律に25%削減する方針を、厚生労働省が「事務連絡」で都道府県、政令指定都市、中核市に通知していたということです。
国は自立支援法の施行に伴うものだ、といってますが、あれだけ多い批判に背を向けて粛々とこうした通知を送るのは、明治の暴政と大して違わないなあ、とため息。そもそも、自立支援法の前に、もっとすることがあったでしょうに。
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