競争の中の敗者
毎日、せみ時雨の中で目覚めます。
あっちの木にも、こっちの樹にも、かるく5、6匹はいるでしょうか。
下の写真の中央部、幹の左側にはクマゼミもとまっています。
さて、いつか、「人類には《適正人口》というものがあるんです。だから人間は戦争をするんですよ」といった高校生がおりました。多分、誰かの意見の受け売りでしょうが。
もちろん、彼は、適正人口の考え方からする《余剰人口》のうちには自分自身は入れていないわけです。昨日のエントリーにある「傲慢な若者」のうちの1人です。
彼は「競争」を、生存競争と捉えていました。「弱いもの」がこの世から退場していくのは当然で、生物の宿命だ、というその論は、ナチスの似非生物学を思い起こします。
中・高校生の心をとらえたこうした論法がいまだ健在というより、命を吹き返して若い人に働きがけているのにびっくり仰天した私ですが、たやすくそんな論を受け容れてしまう危うさはどこからくるものなのか、しばし考え込んでしまいました。
エリートになるように教え込まれ仕向けられて幼い頃より人と凌ぎを削り、地元小学校というちっぽけな世界からさらなる世界へ向かっていった子供たち。
競争そのものが自己目的化していると、結果に一喜一憂しながら、良ければ傲慢な物言いに拍車がかかり、悪ければノーベル賞受賞を妄想したりします。ただしそんな中でも、まだ幼さを残す照れ笑いは、ある意味で救いでしたが。
そんなごく普通の青年の心の隙間に、巧みに忍び寄っていくのが、弱いものの退場は当たり前だ、という感覚です。自分だって弱いものの1人だ、という自覚はありません。それを認めるのは、生存競争の敗者と自分を位置づけることになる、という恐怖感があるのかもしれません。
あくまでも、自分は強く正しくないといけない。そうでない自分を想像するのは怖ろしい。
いいじゃない、弱くても。ひとりじゃないよと、一緒につぶやきたい。
昨晩のNHKスペシャルで、旧ユーゴスラビアに住む劣化ウランの被害者の女性がいいました。
「米国は強大な国です。大きな国は何でもできるが、私たちは何にもできない」
こう言う人がおかしいのではない。言わせてしまう世の中がおかしいのだと思います。
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