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日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか

 13日のNHKスペシャル:「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか」を見ました。

 廬溝橋事件発生当初の不拡大方針にもかかわらず、戦線は欧米をも巻き込んだ世界戦争へと突き進んでいく。この国の指導者たちの甘い見通しに、またしても嘆息。

 客観的な根拠なしに、己の希望的観測から予測を誤る。はたして今は大丈夫なのでしょうか。

 番組の概要を、備忘録として記しておきます。

 69年前の1937年7月7日、日中戦争の始まりとなり、日本の国際的孤立を深めた軍事衝突が、北京郊外の廬溝橋一帯で起った。

 当時の国民党指導者、蒋介石の日記には、多くの国々に日本への経済制裁をとらせようとしたことが書かれ、前年日本と防共協定を結んだドイツは、日本とは友好な関係を維持し、中国への武器輸出は続けるという、日中両国と複雑な関係を結んでいた。

 現地軍司令官、松井石根(まついいわね)の日記からは、中国軍恐るるに足らずと信じ、負けるという感覚がなかったこと、中国軍は烏合の衆と考えていたことがうかがえる。

 金沢を本拠地とする第9師団は、日中戦争出兵当時2万2千の兵力を擁し、開戦後2ヵ月で上海に上陸。南京攻略にも参加。

 92歳の元兵士の証言:昭和12(1937)年9月27日、上海上陸。視界内のものすべて壊滅。敵の屍が続き、血の腐敗した悪臭が鼻をつく。

 廬溝橋事件に対する日本の対応をみると、当時の総理大臣近衛文麿は、満州の日本軍がソ連と対峙していたという事情を抱え、不拡大方針をとった。

 が、陸軍参謀本部の中には「対支一撃論」を唱えて参戦を求めるものがいた。

 対支一撃論とは、満州事変の際の蒋介石率いる国民党の堕落、党員の腐敗を見て、
中国は四分五裂して国家の体をなしていないと分析し、3~5個師団を投入して一撃すれば、中国側はぱっと矛を収めるに違いないという考え。

 が、軍の立て直しを図っていた蒋介石は、事件の起こった翌日の7月8日、日本の侵略者は、我が軍の準備が完了していないと見て、屈服させる気か。我が軍は今こそ徹底抗戦をする、と日記に書き、その後毎日、日本に奪われた国土を奪還し雪辱を果たす決意を示して、「雪恥(雪辱のこと)」の2文字を記している。

 当時上海で居留民保護を目的とする日本軍兵士は5,000人。そこへ陸軍は10万の兵士を送り、戦火は一気に拡大する。

 中国軍が予想を上回る強力な武器を持っていたたことから、10月の日本側兵士存亡率は53%であった。命中精度が高く、当時世界最高峰といわれていたチェコ製のZB26軽機関銃である。

 当時ドイツは最新鋭の兵器を中国に輸出すると同時に、30人の軍事顧問団を蒋介石のもとに送っていた。その代表者ファルケンハウゼンは、中国兵の士気は高く、徹底抗戦の構えは整っている、と記録している。

 このときのヒトラーの意思は、前述の通り、友好国日本との協調関係を維持し、その一方で中国への武器輸出は続けるというもので、装甲車、戦闘機等を大量に中国に輸出していた。廬溝橋事件当時の輸出量は、前年の3倍にのぼっていた。また、ファルケンハウゼン等は中国軍に軍事訓練をも施していた。

 中国側は防御陣地を築き、国際都市上海で戦いが始まれば、国際的関心を引くと判断。

 上海での戦いは激戦だった。ファルケンハウゼンに学んだ中国軍は徹底抗戦を極め、金沢の第9師団は、1ヵ月で1万の兵力を失う。

 元兵士は陣中日記で、共に出征した幼なじみのことを心配していた。

  畑中伍長はどうしているかね? と尋ねると、頭部貫通銃創で死亡しました、という返事。胸も張り裂けんばかりであった。

 こうして暴支膺懲(ぼうしようちょう:「中国を懲らしめる」の意)の声が高まり、兵士たちは敵愾心を募らせていく。

 10月20日、東京の参謀本部は大規模な増員派兵を決めたが、戦域を上海に制限して制令線を引いた。

 日本は、国際法上の戦争にはしたくない、という気持を持っていた。

 戦争になると、「中立法」が存在するアメリカから、武器調達ができなくなることを恐れたためであり、ついに日本は、中国に対して宣戦布告をすることがなかった。

 日本は7万の増員派兵を行う。

 その時、ベルギー、ブリュッセルでは国際会議が開かれるところで、蒋介石は欧米の国々に働きかけて、日本への経済制裁を求めようとした。

 欧米メディアは、激戦の様子を本国へ映像で知らせた。

 蒋介石は、激戦地、四行倉庫の死守を命じる。が、同戦闘は4日間で終わり、ドイツ式精鋭部隊は失われ、11月のブリュッセルでの国際会議も、蒋介石の期待はずれで終わってしまう。

 11月上旬、上海陥落。

 脱走する中国兵追撃の命令を出して、松井石根はさらなる戦線拡大を目指した。 

 11月22日、日本軍は制令線を越えて南京に向かう追撃は可能かと参謀本部に打電。参謀本部は現地軍の独走に歯止めをかけようとしたが、中に現地軍と密かに通じたものがいた。

 そのうちのひとり、下村定中将が独断で、軍上層部は追撃を目指しているように天皇に上奏して発覚したが、罪は問われずにすむ。これを見て現地軍は独断で南京追撃に走る。

 ついに12月1日、軍上層部は南京攻略を命令。日中の戦いはなし崩しに全面戦争へと発展

 蒋介石は国際社会の新たな支援を求め、南京を死守しながら挽回の方策を講じる。

 当時、ソ連が中国に、飛行機、大砲等の武器の供与をしていてが、蒋介石は、スターリンにソ連軍の出兵を電報で促した。

 12月上旬、南京付近で大規模な戦闘があった。

 12月5日にソ連から回答がきたが、それは2ヵ月後の会議で出兵の承認を得る必要のあることを伝えるのみであった。ソ連はこの時、欧州でのドイツの動きに神経を使っていたのだ。

 12月7日、防衛軍10万を残して蒋介石は南京を出る。

 10日、日本軍南京への総攻撃を開始。司令長官が逃亡したため、残った中国軍は大混乱に陥り、3日後に陥落。

 民間人の服に着替えた中国兵が南京城内に潜んでいると考えた日本軍は、「老人と幼児以外のすべての男子を逮捕・監禁すべし」という城内掃討の命令を出す。

 当時国際社会の管理下にあった難民区内も作戦の対象になった。

 日本は、捕虜の人道的扱いを求めるハーグ陸戦法規を批准していたが、宣戦布告のない日中戦争において、この法規をことごとく適用するのは適当ではないとし、また「捕虜」という名称はつとめて使用を避けよ、と命令。

 皇族も含めた南京入場記念式典を2日後に控えて、歩兵第7連隊に掃討命令が出されたが、この時はもはや「逮捕・監禁」ではなく、「捕捉・殲滅」命令で、作戦は12日間にわたって続いた。公式記録では6,670人が殺されたことになっている(この部分、コメントで「1つの連隊が12日間で6670人殺したって言う軍事記録です」と指摘されました)。

 12月16日、若者を5人位ずつ縛って揚子江に連行し銃殺したと、92歳の元兵士は証言した。 

 首都を落とせば中国は屈服すると日本は考え、また国内は戦勝ムードに沸き立っていた。

 このとき近衛首相は、今後、中国国民党政府を相手にせず、と宣言して対話の可能性を摘んでしまう

 一方蒋介石は、首都を重慶に移して、徹底抗戦の構えを見せた

 南京陥落は多くの外国人に目撃されている。

 1938年、ドイツの外交官ゲオルクローゼンが、アメリカ人宣教師ジョン・マギーの撮ったフィルムをドイツに持ち帰る。現在ドイツでこのフィルムは見つかっていないが、コピーが複数あってアメリカに渡り、教会等で繰り返し上映された。

 蒋介石は、毎月10万ドルの宣伝費用を使うべきだとも言い、アメリカ社会への働きがけを強める。

 1938年、アメリカは日本との貿易を制限する政策をとり始める。

 以上、番組から。

 なお、南京陥落の際の虐殺について、元日本軍特務機関員の中谷孝さんの証言が日刊ベリタに載っていました。一度お読みになることを、おすすめいたします。

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コメント

日刊ベリタの元兵士の方の証言を読んでいて、「蟻の兵隊」という映画のことを思いだしました。
http://www.arinoheitai.com/index.html

終戦後も中国に残留して戦争を続けた兵士の物語なのだそうです。中谷さん同様歴史に向き合う勇気ある証言者です。映画は東京・大阪・名古屋などで上映されているようです。

証言(主張)しなければ「なかったこと」にされてしまう事実ってありますよね。大声にかき消されそうな小さい声であっても根気強く声を出していきたいものです。

ベリタの「北アイルランド特集」も興味深く読みました。とむ丸さんの記事は本当に勉強になります。

投稿: PFC | 2006年8月14日 (月) 15時02分

PFCさん、こんにちわ。
 暑くて暑くて、ばててしまいそうです。
映画『蟻の兵隊』について、中谷久子さんという方が書かれています。ちなみに中谷久子さんは、中谷孝さんの妹さんのようです。
http://hisakobaab.exblog.jp/

 この映画で部下を犠牲にして自分だけが帰国した澄田司令官の実子が、バブルを招いたと批判される澄田元日銀総裁だということです。ご存じでしたか?

 まったく、この国の支配層のモラルはどうなっているのでしょうか。

投稿: とむ丸 | 2006年8月14日 (月) 15時24分

熊さんじゃないですが「うへえ」と思いますね。
フィクションですが、帚木蓬生の「ヒトラーの防具」(新潮文庫)では、ナチス・ドイツの「破竹の勢い」をそのまま信じて相対化することができなかった外交官や軍部の愚かさが、リアルに描かれていました。

投稿: 朱夏 | 2006年8月14日 (月) 18時21分

朱夏さん、おひさしぶりです。
お忙しそうですね。
長屋の熊さんでも「うへえ」といいそう……何か、私たちの国は、シンゾー氏も含めて、エリート育成のシステムそのものがどこかおかしいのでしょうか。もっともアメリカもジョージですから、おかしいのはこの国だけではありませんね。
帚木蓬生といえば、『三度の海峡』しか読んでいません。そんな話しがあったのは知りませんでした。おもしろそうですね。

投稿: とむ丸 | 2006年8月14日 (月) 20時05分

大変な日になりました。小泉の本性がヤスクニに表れています。
「経済格差」の拡大を庶民に押し付け、それを確固とした権力によって押さえつける仕組み作りが、ヤシクニ参拝です。
現状をひっくり返す行動――アメリカの広島・長崎への原爆投下、北ベトナムへの北爆、北朝鮮のテポドン発射、周辺国が反対しているにも拘らず日本の海外侵略の正当化――は同じです。
私は「経済格差」が様々なところで、表現されていることを明確にしていこうと思っていますが、私はブログだけでは終わらず、行動もするつもりです。

投稿: morichan | 2006年8月15日 (火) 09時03分

「捕捉・殲滅」命令で、作戦は12日間にわたって続いた。公式記録では6,670人が殺されたことになっている。]ここ間違っています。1つの連隊が12日間で6670人殺したって言う軍事記録です。

投稿: 事実 | 2006年8月15日 (火) 14時56分

morichanさん、こんにちわ。
朝のテレビ報道を見ながら、つくづく、コイズミ・ジュンイチロウという人間の本性を考えてしまいました。こんな人間を総裁にした自民党、さらには私たちの代表として国会に送り出し、高い支持率を与えた私たち国民の責任か! と暗澹とした、何ともいえぬ気持にさせられました。彼は、以前にも増して悪い人相になりましたね。

事実さん、ありがとうございます。
 この部分、いくら公式記録にしても、数が少なすぎるな? と思っていたところです。教えていただき、感謝! 内心、違っていたら誰かが指摘してくれるかな? と期待はしておりました。m(_ _)m 
 ただ「作戦は12日間にわたって続いた」という言葉はナレーターのままだったと思います。
 
 番組を見ながら、ひたすらメモして、とにかく数字は間違えないようにと注意をしていました。ビデオにとって後から確認をすれば良かったのですが。

投稿: とむ丸 | 2006年8月15日 (火) 15時20分

南京アトロシティーについて,昨日の「人民日報」が「江蘇省で南京大虐殺の生存者に寄付金を50万元」という記事を載せていました。asahi.com の http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200608140146.html に和訳が載ってますので,参考に。(私の下手な訳より良いでしょう)

後日書く私のブログでも書きますけど,今日8月15日はあくまで「敗戦記念日」に過ぎません。一切の政治犯が釈放され,特高が解散されたのは二ヶ月後の10月10日で,これこそが本当の「終戦記念日」ではないかと,私は左様に考えております。
 

投稿: kaetzchen | 2006年8月15日 (火) 21時04分

 以下の記事を、貴ブログへTBしようとしましたが、うまくいきませんでした。

*「深夜政権」となるか?(8月15日記事)
http://moon.ap.teacup.com/komichi/96.html

 今回、TBできなかったのは何故?
 ISPの不調か? 時間帯の問題か?
 他のISPブログへのTBは、ほとんどうまくいったのに。

 それとも、今回もgooさんみたいに、フィルタリング機能があったとか?(笑)
 まあ、理由はともかく遅れなかったので、このコメントを代わりに送ります。

 
 ところで、古い話になりますが、93年6月13日に、NHKが『責任なき戦場』という、日本軍がビルマ攻略のために行った「インパール作戦」についてレポートした番組がありました。
 無謀で無責任な軍上層部のため、現状を無視した無謀な作戦が決行され、その結果、何万のも兵士を死に追いやったあげく、作戦は無様な失敗に終わった、という話です。
 番組が放映された時は、ちょうどバブル崩壊後。
 バブルで失敗したあげくに責任をとらない経営者たちや、その失敗のつけでリストラの犠牲になったサラリーマンなどの姿と、当時の軍の姿とを重ねて観た人も多く、多くの反響を呼んだとか。

 その番組は、書籍として出版されたとか。
 詳細は、以下に。

http://gamaster.s37.xrea.com/item.php?asin=4041954150


http://gamaster.s37.xrea.com/item.php?asin=4041954150

投稿: komichi | 2006年8月15日 (火) 23時41分

>komichi さん

私のブログへもトラックバックが失敗したみたいですね。恐らく,時間帯とかの問題じゃないかと……。

# 特に昨晩は子供を持つ年齢層の「大人」は未だ帰省中で,深夜にネットを見てた人は少ないはず。つまり,一部のネットウヨのようなキ印が一斉にアクセスしてたと考えるのが妥当でしょう(私のブログのアクセス解析も深夜から早朝がやたらと多かった)。

あとは接続しているプロバイダの安定性も気にしておくと良いかな。転送がとぎれとぎれになると,こういう現象はしばしば起こるものです。

投稿: kaetzchen | 2006年8月16日 (水) 07時03分

kaetzchenさん、いらっしゃい。
 南京大虐殺の生存者、いわば歴史の証人を大切にしていることがうかがえる記事ですね。
 常日頃から相手を見下し驕っていると、見えることも見えなくなるのでしょう。そして独りよがりに突っ走る。失敗するとほおかぶり、ではねえ。
 新しい記事を楽しみにしています。

komichiさん、おはよございます。
わざわざお知らせいただき、ありがとうございます。「深夜政権」とは、rさんもうまいこといったものですね。
この国の支配層の哲学と節操のなさはつくづく嫌になります。欲と金だけで階層を上昇する結果でしょうか。

投稿: とむ丸 | 2006年8月16日 (水) 10時18分

社会党の村山さんが首相になる1年ほどまえ,肥後の殿様が首相になっていたことがあります。殿様がいつもいつも深夜に走り回るのを見て,村山さんが「夜に騒ぐ男じゃのう」と笑ったとか。(^^;)

殿様は今では陶芸にひたりながら,不動産収入で毎日をお遊びになられる生活だとか。

# 学生の時の同級生がたまたま家臣の世継ぎで,選挙の時は振り回されたと愚痴を言っておりました(笑)

投稿: kaetzchen | 2006年8月16日 (水) 10時36分

 毎日お遊びなられている点だけは、私も同じ……(^^)

 で、どこかで読んだ記憶があるのですが、国会職員の話しによると、歴代総理の中で、このお殿様は一番の勉強家だったそうです。
 そして一番の勉強嫌いは、ジュンイチロウ君。

 すっごく納得しました。

投稿: とむ丸 | 2006年8月16日 (水) 11時22分

とむ丸さん、すみません。二重にTB入ってしまってます。消してください。最近TBが入りにくくなっているため、つい「二度クリック」ふうのことをやってしまう場合があるのです……(どういうこと? 何でそんなことになるの?という質問はおやめください。私もわからないのです。汗)

投稿: 華氏451度 | 2006年8月16日 (水) 14時46分

あ,殿様が勉強家であることは熊本でも有名ですよ。商店街にある紀伊国屋書店の売上で,熊本大学と熊本県庁の次が殿様というジョークもあるくらいだそうで(笑)

ジュンイチロウ君はお金の力でご幼少のみぎりから,ずっと「地元の慶応」ボーイですから(笑) あそこはピンからキリまで極端です。ジュンイチロウ君と長年の親交がある栗本慎一郎もそんなことを書いてましたね。

# もしかして出典は同じかな?(笑)

投稿: kaetzchen | 2006年8月16日 (水) 15時51分

華氏さん、ご心配なく。私も時々経験します。

投稿: とむ丸 | 2006年8月16日 (水) 16時50分

コメントとトラックバック、ありがとうございました。

日中戦争については、さまざまな議論がなされていますが、急がないと当時の記憶を持つヒトがいなくなってしまいます。

それと、コメントでもいただきましたが、靖国と遊就館には、ぜひ行ったほうがいいと思いますよ。

投稿: 発掘屋 | 2006年8月16日 (水) 23時26分

発掘屋さん、おはようございます。
>急がないと当時の記憶を持つヒトがいなくなってしまいます。

 先日、NHKテレビには直接本人にインタビューして記録を集めていた若い女性が出ていました。きっと全国にはかなりの数の人が情報を持っているでしょうね。そうした人たちの情報ネットワークみたいのはできないのかな? と今考えていたところです。私が大金持ちだったら、財団法人でも作って、メモリアルを建設しまーす。

投稿: とむ丸 | 2006年8月17日 (木) 09時08分

発掘屋さん、おはようございます。
>急がないと当時の記憶を持つヒトがいなくなってしまいます。

 先日、NHKテレビには直接本人にインタビューして記録を集めていた若い女性が出ていました。きっと全国にはかなりの数の人が情報を持っているでしょうね。そうした人たちの情報ネットワークみたいのはできないのかな? と今考えていたところです。私が大金持ちだったら、財団法人でも作って、メモリアルを建設しまーす。

投稿: とむ丸 | 2006年8月17日 (木) 09時21分

Web ブラウザを再インストールしたので,ようやくコメントが書けるようになりました。(^^;)

# ニフティ(富士通)の官僚的な対応は昔から変わらん。テンプレートのスクリプト言語に文法ミスがあることを指摘しても,Web ブラウザが悪いと決めてかかる……。

愚痴はさておき,母方の祖父が亡くなるまでの数年間,祖父は中国兵に殺される妄想を一日に何回も見てうなされていました。母方の祖父は陸軍憲兵として中国で虐殺を指揮した一人だったのです。当然,戦後は戦犯として処理され,人脈を頼って建設会社の営業をしてました。私が生まれた頃にはすでに託嘱の身となってましたが,会うたびに「戦争に行ってはいかんぞ。戦争を起こしてはいかんぞ」と言うのが口癖だったのを未だに覚えています。祖父の遺言は「絶対に靖国神社には祀るな」でした。

投稿: kaetzchen | 2006年8月17日 (木) 13時57分

やけにkaetzchenさんがおとなしいと思っていたら、そんなことだったのですね。
それにしても、おじいさんが悪夢にうなされたとは。

投稿: とむ丸 | 2006年8月17日 (木) 15時17分

この記事へのコメントは終了しました。

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