こんなツツジもあります。
ゲンダイネットで田中康夫さんが、「名無しの風土から生まれた福井日銀総裁」というタイトルで、主語がなくても語ることのできる日本語の欠点から、「責任の所在が明確ではない日本社会を齎(もたら)したともいえるのではないでしょうか」と指摘されています。
さらに、「その無責任体質は、閣議の在り方に象徴されています」といわれて、私たちの国では、いかにいい加減に閣議決定がなされているか、伝えています。
閣議の前日に開催される事務次官会議では、各省庁から提案される新たな施策について、他省庁の次官は反対をしない、という不文律が存在している。つまり、
「会議の議題として取り上げられた段階で既に、「合意」され」、
「翌日の閣議は、その大半の時間が花押(かおう)を内閣の構成メンバーである各大臣が記す作業に費やされます」ということです。
新たな法案は、閣議以前にすでに決まっている、とは知っていましたが、事務次官会議以前にすでに決まっていたとは! 恥ずかしながら、私は知りませんでした。
「全会一致」とはこのことだったのですね。
事務次官会議は、互いに認め合い、かばい合いう、仲良しクラブですか。
閣議決定といえば、最近では防衛庁の省昇格法案がありますが、 防衛庁が案を出して、他省庁は無言のうちに承認し、閣議はそれを 後押しするだけ。庁じゃつまらない、省になりたい、今ならなんとかなる、とばかりに、法案立案なんて、信じたくないけれど。
要するに、閣議というのは、形さえ整えば、前も後も野となれ山となれ、というわけですね。
東京大学公共政策大学院(課題解決力や政策立案能力を持った官僚養成を目的に、2004年4月に新設された)教授で、多くの審議会・会議等で委員をされている森田朗先生は、「三権分立のドグマ」を退けてでも、「官僚主導で行われていた政策形成を、本来の担い手であるべき国民の代表である政治家の手に」取りもどそうと言われています。
先生は、「中央省庁等改革基本法」の制定過程にも関わり、巨大な行政組織を統制するには従来の内閣官房ではとても足りない。これを強化し、さらには「内閣府」を設置しなさい、と提案したおひとりです。
同基本法は1998年(平成10年)に成立、最終改正案は翌1999年に国会を通っています。
森田先生は、一貫して、「政」の「官」に対する優位を主張しておられます。
ともすれば仲良しクラブになりがちな、というよりすでに仲良しクラブになっている事務次官会議と閣議を「改革」し、さらには省庁の縦割り構造を打破するために、内閣に、「究極的には国会で選出された内閣総理大臣」に、「強力な調整権」を与えよう、ともいわれています。
「『強力な調整権』が制度化され、実際に行使されるならば、縦割り行政の弊害が減少する可能性が高いと思われる」というわけです。
そこで内閣法4条と12条を改正して、内閣総理大臣の発議権と内閣官房の総合調整権を強化した経緯について、前内閣総理大臣補佐官の水野清さんが「中央省庁等改革基本法とは」に書かれておられます。
こうした内閣官房の権限強化、内閣総理大臣の権能強化によって、果たして縦割り行政の弊害が減少して、国民の声がどれだけ政治に反映するようになったか、一度は検証が必要でしょう。
「官僚主導で行われていた政策形成を、本来の担い手であるべき国民の代表である政治家の手に取りもどそうとするもの」という森田先生の考えは、理念としては頷けるものですが、その政治家がどれだけ国民の代表たる資質を備えているか、また国民も、かつ国民が育て、同時に国民を育てる社会が、民主主義からみたときどれだけ成熟しているか、という大きな問題が横たわっています。
早くいえば、「B層」を《戦略ターゲット》にする政権を擁し、多くの国民が「B層」と嘲られていることも知らずに相も変わらず支持し続けている現状に、こうした理念を持ってきて、果たしてそれが活きるのか、疑問です。
おまけに、「国会で選出された内閣総理大臣」と森田先生は定義されていますが、実際は、政権与党の総裁が総理大臣の地位に就くということですよね。憲法第67条には、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」となっています。はっきりいえば、「選出」ではなく「指名」ですね。
小泉首相の鶴の一声で国会延長もできなかったことに象徴されるように、内閣総理大臣が、現在、圧倒的な力を誇示するまでになっています。これは、ど素人の私の感じ方に留まらず、さまざまな識者の指摘するところです。
植草一秀さんは、議院内閣制のもとで総理大臣にこれだけ権限が集中することに警告を発しています。
「内閣総理大臣が権限をフル活用すると三権の頂点に君臨する存在になる。議院内閣制は絶対権力を創出する「ポテンシャリティー」を持つ仕組みなんですね」というわけです。
そして(この行革以前あるいは小泉以前は)どこかで「自己抑制」が働いて、曲がりなりにも「三権分立」を保ってきたともいわれています。
森田先生と植草さん、いわれていることが正反対なのです。
今の政治のあり方を考えると、私は植草さんの方に共鳴します。
森田先生は、現政権にあまりにもお墨付きを与えすぎたのではないかな、先生ご自身の意思はともかくとして、結果として自己抑制しない内閣総理大臣を是認・後押しすることになったのではないかな、と思っています。
行政改革の結果の1つとして、鬼に金棒、ではなく、駄々っ子にあめ玉を与えてしまったのかな? と思うことさえあります。泣く子と地頭には勝てぬ、ではなく、泣く子と小泉には勝てぬ、です。
そこに祝電問題のアベ氏が首相の座に就いたときには、駄々っ子どころか、花咲じいさんのお隣さんに、宝の入ったつづらを明け渡すようなものでしょうか。
(雑談日記さんが駄々っ子にあめ玉とか、欲張りじいさんに宝のつづらとか、どれかのバナーを作ってくれないかしら)
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