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犠牲の論理のカラクリと私たち

Photo_26 Photo_28 バンマツリの花が咲きました。濃い青色は、日が経つにつれて薄くなっていきます。

 写真を撮りに庭へ出ると、蚊の襲来。我が庭に出るのも、覚悟のいる季節の到来です。

 高橋哲哉さんの『国家と犠牲』を読みました。私がもやもやとして抱いていた疑問が解消されたわけではありません。むしろ新たな問題が突きつけられたのではないか、と思っています。

 「寒村の見た召集風景」で私は、幼い子どもを含めた母と子4人で、出征する父親を見送る姿について、国を守ることと愛するものを守ることは矛盾している、と言いました。おそらく父親は、愛する妻と子供たちのこれからの生活を案じ、また己の命についても、覚悟しようにもしきれない思いを抱えて、戦地に赴いていったのだと思います。

 国を守る、天皇陛下をお守りする、という大義の前では、己の家族など芥子粒のように小さな存在だったのでしょうか。

 でも、共に生活してきた妻子、己の血肉を分けたともいえる子供たちへの愛着は、断とうにも断ちきれないものがあります。そうした日々接してきたものへの思いのさらに上位に、国家の、さらには天皇への崇拝の念を持ってきて国民を縛ることがなぜ可能だったのか、それを可能にした装置ともいうべき靖国をはじめとするさまざまな英霊顕彰の意味を、高橋さんは〈犠牲=サクリファイスの論理〉と呼びました。

 私は何度かこのブログでも、「軍隊は人を殺すところとだ」と言ってきました。どんなに美辞麗句で飾ろうとも、どんなに理屈をつけようと、詰まるところは、合法的に人殺しをしようとするところが軍隊でしょう。

 殺そうとする相手がいるから、殺される可能性のある自分もいる。

戦死者の『顕彰』とは、戦死を『尊い犠牲』として褒めたたえ、聖化=聖別し、そのことによって戦争の凄惨な実態を覆い隠し、人々の意識から抹消しようとすることです。『顕彰の』の意味での『英霊祭祀」は、戦死者を『永遠に記憶にとどめよう』とするように見えながら、実は同時に、その戦死の歴史的実態を『記憶から抹消』しようとするものなのです。そしてこの論理は、今後、自衛隊ないし常備軍の海外派兵や武力行使をせいとうかするものとして、さらには国民全体を「戦争」協力へと動員していくものとして機能し始めている、ということでした。」

 と、高橋さんは犠牲の論理のカラクリを述べておられます。

 ただし、合法的に殺したつもりでも、戦争終結後、旧ユーゴ大統領ミロシェビッチ氏のように、「人道への罪」を問われることがあります。いったいどこまでが合法的と認められて、どこからが人道への罪なのか、つねづね疑問に思うところです。

 高橋さんによると、米国の政治哲学者マイケル・ウォルツァーという人が、「正しい戦争・不正な戦争」、「戦争における正義・不正」と言う考え方を示したそうです。それで区分けすると、論理的には、一応、4種類の戦争が考えられます。

(縦軸に正しい戦争の度合いを、横軸に戦争が行われた際の手段の正当性を示す度合いを1つの座標で表したら、その戦争の正当性を一目瞭然に表すことができる、なんて考える人もいるのでしょうか?)

 要するに、自衛のためにする戦争は正しい戦争だ、ということです。それでいつも戦争をしようとする国は、古来より、自衛のためだと主張して始めるわけです。(しかしその「正しい戦争も、正しくなく戦うことが可能」で、「人道への罪」とは、この「正しくなく戦った」ことが問われているのでしょうね。)

 そしてこの「自衛戦争においてこそ、『尊い犠牲』のレトリック=『犠牲の論理』は有効であることになる。」と高橋さんは説いておられます。つまり、侵略を受けた共同体を守るという大義の前では、自らを犠牲にすることがよりいっそう価値あることだと称賛されることになるのです。

 正しく戦われようが正しくなく戦われようが、とにかく正しい戦争といわれるものにも、犠牲のカラクリが機能しているわけです。

 そしてここで、高橋さんが指摘するのが、ウォルツァーも述べている根本的な逆説と難問です。

 つまり、「自衛戦争すなわち正義の戦争を戦う兵士たちは、個々人の声明と自由への権利を守るためにこそ戦い始めるのですが、戦い始めるやいなや、自らの生命と自由への権利を喪失してしまう」という逆説で、これはまた、「自衛戦争の『正義』の本質に属する」難問だということです。

 結局、「一定の人々を殺されるために存在する集団として養っておく」ことで、共同体の他の成員の命と生活を守っているのが「軍隊、常備軍という存在」で、

殺されるために存在するような人間集団を作り出すという不正義、不道徳を消し去りたい、隠蔽したいからこそ、人はそれを進んで受け容れ、価値あるものと考えようとするのではないでしょうか」とは、高橋さんの言葉です。

 このことを、2003年6月30日付の朝日新聞によると久間章生元防衛庁長官が次のように述べたことも、高橋さんは伝えておられます。

 国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る。

 すごい言葉ですね。でも、私たちはこのことに、今まで目をつむっていたのです。ただし、1割なら許容範囲だ、などと考えることは、これもまた言葉と数字のレトリックにはまることです。先の大戦のような総力戦は、この100人のうちの10人が、つまり1割が、限りなく10割に、つまり100人に近づいたことを示しているのですから。(それが実際、現在のイラクの状況ではないでしょうか)

 さらには、この社会、この世界そのものも、「犠牲の論理」に貫かれていることを、高橋さんは語ります。

 その言葉に促されて考えてみれば、南北問題でもそうですね。

 その「絶対的犠牲」の構造の中で生きざるを得ない私たちですが、そしてすべての決定もその中でやらざるを得ないのですが、この犠牲をなくそうと努めること、犠牲をなくしたいという望みをしっかりと抱きしめながら、自らの行為を決定すること、それが現代を生きる一人ひとりに課された課題ではないか、と高橋さんが私たちにつきつけたのです。

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コメント

お邪魔します。
私も「国家と犠牲」は読みました。それに反対する立場ではないのですが、一度はくぐっておかなければならない問題、「本当に侵略されたらどうするのか」の問いに答えることです。今までの平和運動はこの点が弱いのではないかと思います。
 その答えは持ち合わせておりませんが、TBした特攻隊員の言葉は重いと思います。

投稿: 飯大蔵 | 2006年6月 1日 (木) 14時21分

侵略には理由が必要です。従って「なぜ日本を侵略する必要があるのか」という命題が先になければなりません(笑) その辺を飯大蔵さんは考え違いされているのではないでしょうか?

分かり易い話が元寇ですね。モンゴル軍に朝鮮が占領され,モンゴルの命令で朝鮮水軍が博多へ攻め込んだ。なぜ博多かと言えば,流通の拠点であり,かつ朝鮮半島との結節点だったからです。

つまり,他国への侵攻という場合には,必ず,それ相当の合理的かつ論理的な理由が必要で,古来からの兵法というのは一種の自然科学としてそれらを理論化してきたのですね。日本でも防衛大は全んどが理工学部でしょ。自然科学が分からないと,つまり合理的かつ論理的な思考が存在しないと,軍事というのは必ず失敗するという教訓があるからです。

# 昔の特攻隊員の気持ちなんていうのは,今ではどうでもよいことで,遺族が勝手に思い込んでいればよいだけの話です。話を文学的にねじまげるのはやめましょう。

投稿: kaetzchen | 2006年6月 1日 (木) 16時10分

飯大蔵さん、
 すみません。私は映画はほとんど見ませんし、高倉健さんにも特別思い入れはありませんし、彼にヒーロー像を見ることもまったくありません。逆に、ヒーローには限りなく懐疑的な、子育て後のおばさんです。自分の子どももヒーローになってもらいたいとは思いません。
 

投稿: とむ丸 | 2006年6月 1日 (木) 16時32分

kaetzchenさん、
相変わらず、明快な。

投稿: とむ丸 | 2006年6月 1日 (木) 16時34分

実は防衛大の教官とか防衛庁に知り合いが何人もいるもんで(笑) 私自身も防衛医大に受かった人間ですからね。(^_^)/

投稿: kaetzchen | 2006年6月 1日 (木) 18時24分

再びお邪魔します。
「それに反対する立場ではないのです」と書かして頂いた様に侵略されたらどうするのかなどと脅迫するつもりはまったくありません。誤解されないようにお願いします。
kaetzchenさん、仰っている意味が良く意味がつかめません。
 「侵略には理由が必要です。従って「なぜ日本を侵略する必要があるのか」という命題が先になければなりません(笑)」当然侵略には理由があります。具体的に書くとまた誤解されそうなので書きませんが、現在の世界にも理由は山ほどあると思いますが。
 侵略の理由も実際の侵略も無いと考えるという意味なのですか?

とむ丸さん、特攻はヒーローではありません。どちらかと言えば犠牲者です。犠牲者は無くすべきと言うのは当然です。
しかし、都市で空襲などで死んだ人と、心ならずも出征した兵士がまったく同じなのか、考えて欲しいと思っているだけです。

投稿: 飯大蔵 | 2006年6月 1日 (木) 19時34分

「誤解」というのは,つまりは私のとらえ方が悪いということですね(笑) 裁判ではこういう部分で不利になることがありますよ。ネットウヨと「誤解」されないよう,書き方にはくれぐれも気をつけて下さいね。>飯大蔵さん

まぁ,侵略の理由で有り得るとすれば,ペルー軍の侵攻かな。国際手配していたフジモリ氏を右翼の曽野綾子らがかくまっていましたからね(笑) 韓国軍も島根県を攻撃する可能性がありますよ。出雲市の島根原発なんかは格好の餌食です。台湾も可能性がありますよ。八重山諸島へ上がり込んできたら,どうします?(^o^)

投稿: kaetzchen | 2006年6月 1日 (木) 19時59分

とむ丸さま こんばんは
いよいよ来ました。明日の法務委員会(13:00~)で共謀罪採決の予定だそうです。おりこうさんの民主党案を与党がのんで法案を再々提出するようです。与党はきたないですね。これから議員に連絡します。共謀罪には絶対に反対!!
横レスですみませんm(.. ..)m
ではでは。

投稿: こば☆ふみ | 2006年6月 1日 (木) 22時16分

 kaetzchenさん、ちょっと待って。
話が逸れちゃいそうだから。

 飯大蔵さん、
高橋哲哉さんの論に反対するものではない、といわれるのですか? あなたの言い方ではよく分かりません。
「都市で空襲などで死んだ人と、心ならずも出征した兵士がまったく同じなのか、考えて欲しいと思っているだけです」と言われてますが、あなたご自身はどういう風に考えているのですか。

投稿: とむ丸 | 2006年6月 1日 (木) 22時42分

お邪魔します。

戦死すなわち国家死を聖化する思想は、それによって遺族の怨嗟が国家に向かって来るのを和らげる目的を持っています。
これは宗教における殉死、あるいは革命運動や抵抗運動における政治死にも通底します。
すなわち、大きく括れば病死、事故死などの個人死とは別の、言ってみれば共同体死とも言うべきもので、類としての人間社会にあっては、避けられない観念ではないでしょうか。未だそれを乗り越える思想を人類は発明していないとも言えるでしょう。

と、ちょっと理屈を言ってみる。

投稿: 弥助 | 2006年6月 1日 (木) 23時06分

弥助さん、いらっしゃい。

ははは、ちょっと、理屈を言われたようですが、あなたご自身はそれについてどう思われるのですか。

投稿: とむ丸 | 2006年6月 1日 (木) 23時17分

おそれいります。

私の願いはたった一つ。自然死です。

では、また。

投稿: 弥助 | 2006年6月 1日 (木) 23時35分

お邪魔します。
自分の解釈を押し付けたくないので、特攻隊員の言葉を読んで欲しいと思っていたのですが、少しだけ。
 高橋哲哉氏は「いけにえ」と「贖罪」について書いています。限りなく西洋の概念であるその二つは言葉としてはわかっても、私にはしっくり来ません。理解できるのは国家はその目的の為、犠牲者を必要とし、それを顕彰することです。
 日本の概念で言う犠牲者は「人柱」などで言われるものです。「彼らが犠牲となったので他の人々が幸せになった」と言う言葉がその概念でしょう。
 
 戦争における犠牲者は戦闘員と非戦闘員に別れます。戦闘員には愛国心に溢れた人から忌避直前の人までいたことでしょう。自ら戦闘員になった人は、自らが犠牲者となることは分かっていたであろうし、それを甘受していたはずだ。それはひたすら愛するものの為のはずであり、愛するものとはまず自分の家族のはずだ。
 犠牲者は死んだことに意味があると言われるでしょうが、何をやろうとしていたのか、やることにより犠牲になった面を見たいと思う。
 特攻隊員は死んだ同僚を悼み、同時に愛するものを思う。その心境を理解したいと思っています。

投稿: 飯大蔵 | 2006年6月 2日 (金) 02時24分

飯大蔵さんも弥助さんも,論理矛盾がはなはだしいです。文学論はどっか他でやって頂けませんか?

政治はあくまで論理の積み重ねです。誰某の本の引用など,どうでも良いこと。感情論で語る戦争は無意味なんです。その辺がお分かりにならないと,議論は最初から成立しませんよ。

投稿: kaetzchen | 2006年6月 2日 (金) 07時18分

おはようございます。

飯大蔵さん、
「いけにえ」「贖罪」という言葉も、高橋さんが一般的な国家論へと収斂させるために、日本だけではなく西洋においても犠牲の論理が働いているという考察において使われただけですね。そして国家論として一般化したときは「犠牲」という言葉を使っている。それでいいのでは? それとも、あなたなら、「人柱の論理」という表現をとりたい、ということですか?
 愛するもの、家族のために死を甘受していたはずだ、とあなたはいわれますね。それは私が、「国を守るためと愛するものを守るためという2つのものの間には矛盾が存在している」といったことへの反論ですか?
 犠牲者の犠牲になった面、とは何を指すのですか?
 とにかくそうした諸々のことは一応置いて、あなたなら特攻隊員の心情を理解したい、といわれるのですか?
そのあたりを私にも分かりやすく整理してい説明していただけますか。
 

投稿: とむ丸 | 2006年6月 2日 (金) 09時14分

 kaetzchenさん、
 国家論どころではないですね、今日の法務委員会。
 私のところにはまたやけに慌ただしい仕事が舞い込んできて、また顔が引きつりそう。

投稿: とむ丸 | 2006年6月 2日 (金) 09時18分

とむ丸さん 再びお邪魔します。
国家論として、国家が犠牲を必要とし、それを顕彰することに変更はありません。日本における「犠牲」の概念について言っただけです。
国家が要求するものと個人が要求するものは一致していると言う保障はありません。それが違うことの方が多く、それを一致させる為に国家が顕彰などの方法を使うと言うことです。だから反証では有りません。
「犠牲者の犠牲になった面」ではなく、「何かのために自ら犠牲になった面」です。例えば地下鉄に転落した人を救うために自らの命を落とした人の話です。
どうも説明は難しいようですね。

共謀罪の展開は困ったものです。廃案にして仕切りなおして欲しいと前から思っていました。
何回もお邪魔して失礼いたしました。引き続き拝見させていただきます。では

投稿: 飯大蔵 | 2006年6月 2日 (金) 11時40分

飯さんが最終的に何を言いたいのか、結局わかりません。
「本当に侵略されたらどうするのか」って命題ですが、今の日本はアメリカに侵略されて日本国の富が要領よく奪われ、沖縄などでは大和撫子がよく米兵に暴行されているようです。こういう状況を前に、飯さんはどうしていらっしゃるのでしょう。お答えを強制はしませんけど。

投稿: 村野瀬玲奈 | 2006年6月 4日 (日) 03時07分

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