みな、思い思いの青春を生きてほしい
1923年(大正12年)、関東大震災が起こったとき、寒村はソビエト連邦に滞在中でした。モスクワではトロツキーの演説も聴いています。
ちょうどその時、スターリンが着々と権力掌握の策略を巡らしているのを心痛するレーニンは病床にありましたが、その事情を寒村が知るのは後のことです。
9月上旬に大震災の報に接して上海経由で帰国。自宅に帰ったときは11月になっていました。そこで妻の玉から震災当時の話を聞かされます。
虐殺の前日、大杉が末の子を乗せた乳母車を押しながら訪ねてきて、
「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配することはないョ」と励ましたそうです。
この翌日、大杉は妻の伊藤野枝、甥の橘少年と共に無惨な最期を遂げましたが、その10日以上も前に、労働組合関係者10名が、また自警団員ら6名、朝鮮人多数が、亀戸署内や荒川放水路で殺されています。
そのため、寒村を見た瞬間の妻の言葉は、「何だって帰ってきたんです」というものだったといいます。
大杉が寒村の妻を見舞ったときに連れていた子が、松下竜一さんの『ルイズ――父に貰いし名は』のルイーズこと伊藤ルイさんですから、ルイさんは、ちょうど私の母と同い歳です。
友人が親しかったので、晩年近く、何度かお目にかかっていますが、目の大きなきれいな方でした。
敗戦時、ルイさんも母も23、4歳……
父は『人間の条件』の主人公の梶と同世代で、入営の翌月には2.26事件に巻き込まれています。麻生3連隊に所属していましたから、上官に率いられて、何か何だか分からないうちに反乱軍の一員にされてしまったわけです。
反乱軍に加わったということで、通常なら2年で済むところを、倍の4年、兵役に服さねばなりませんでしたし、事件後1ヵ月は兵舎に缶詰にされて肉親との面会もできず、すぐに大陸の最前線に送られています。
ただ、大陸に送られる直前に、一時、帰宅を許されたという話は、当時まだ小学生の叔父から聞きました。父は1915年(大正4年)生まれですから、敗戦時は30歳です。
あまり戦場の話をしなかった父ですが、私が中学生の時、流行の米国製TV映画『コンバット』を見るたびに、「本当の戦争はこんなもんじゃない」と、言うのが口癖でした。
私の親の世代の青春は、まさに戦争の真っ直中です。
それを思うと、私は私で、いたたまれない気持になります。
自分自身が親になって、自分の親たちにも青春らしい青春を味あわせてやりたかった、と思うからです。青春の仕上げが軍隊だなんて、ひどすぎます。古参兵の新兵いびり……しょうもない理由で往復ビンタを食らうのは日常茶飯事……理不尽なことにも疑問を持たないようにしつけられるわけです。戦場で人が殺せるように。
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コメント
お父さま、苦労されたんですね。ということはノモンハンの生き証人ということでしょうか。よく生きて帰っていらっしゃいました。あの戦闘辺りから、日本軍は兵隊をまるで機関銃の弾のように突撃だけさせる(正確にいうと相手の戦い方が違うのに同じ方法で突っ込ませた)ようになった気がします。今の子供がテレビゲームをやって有害と言う人がいますが、昔の子供(何も育ってない軍人のこと)は自国民でやっていたわけですから、どうしようもありません。
投稿: luxemburg | 2006年5月16日 (火) 22時54分
luxemburgさん、こんばんわ。
父はノモンハンには行っておりません。
除隊して帰ってきたとき、今度戦争に行ったら、間違いなく命はない、と思って、どうしたら行かずに済むか、考えたということです。結局、上海で敗戦を迎えています。それで、児玉誉士夫あたりの悪さはよく知っていたようです。
父の歳での生き残りは、少ないようです。
投稿: とむ丸 | 2006年5月16日 (火) 23時31分
TBありがとうございます。
義父が衛生兵として6年も中国に行っていましたが、どこかの隊の隊長は日本に籍がない、2・26事件で処刑されたことになっている将校だといううわさがあったそうです。
投稿: ヘリオトロープの小部屋 | 2006年5月18日 (木) 10時30分
ええっ、そんな話があるんですか。
父たちの上官は目の前でピストル自殺した、と聞いています。
投稿: とむ丸 | 2006年5月18日 (木) 11時16分