口封じ
寒村自伝には日米開戦からの4年間の記録は言葉も少な目です。この間のことを、彼は次のように言ってます。
「大逆事件後の弾圧が苛辣を極め、社会主義の間にいわゆる転向の走りが出た当時、堺先生は私に「黙って忍んでいることも、また勇気を要することなのだ」といわれた。私はその言葉を唯一の力綱に隠忍してきたのだが、一面では無為に対する自責と無力に対する自覚との矛盾に苦しんだ。」
それでもわずかですが、戦時中の日常生活がうかがわれる話がいくつかあります。
どなたかが、ブログで、NHKの朝ドラは戦争中の話だったな、戦争中でもあんな呑気なことをやっていたのかな、というようなことをいわれていました。
1942年(昭和17年)4月のことですから、開戦からまだ半年も経っていないときのこと。
寒村は人の案内で、元柳沢吉保の屋敷、六義園を逍遙していて、はじめて米軍機の襲来を経験しています。ドゥリトルが「ほとんど掠めるように疾過して全面の森の梢スレスレに飛び去った」という話です。
翌43年には、天丼や天ぷらそばがコロモばかりで、たまに中味が入っていれば煮干し。大金を投じた下駄は歯がのり付け、台が3つに貼り合わせてある、とんでもない粗悪品だ、と嘆いています。
食堂も「外食券」なしでは利用できなくなりますが、食料の配給券を外食券に替えると、砂糖も炭も手に入らなくなります。当時は燃料といえば炭でしょうから、当然外食はほとんど不可能という状態です。
配給の薄黒い芋の粉は練っても固まらず、コウリャンの入った米は色こそ赤飯だが、どうにも喉を通らない、とこぼしながら、敗戦直前の東京では庭にサツマイモを植えています。
とうの昔に砂糖を味わえなくなっているのに、砂糖は人体に有害だ、と唱える学者がいたり、乏しい食料事情から前々から雑草も食べていた庶民に、雑草の中には栄養になる種類があると説く学者がいたり。
配給のタバコの中にはイタドリ、うどんの中にはドングリが混ざり、 せっけんの配給がなくなる。
そんな苦しい生活の一端がつづられています。
六義園で遭遇した米軍機の爆撃は、その後激しさを増し、ことに44年以降は「日をおうて熾烈を加え」ていきます。
そして45年3月9日の東京大空襲の翌日、寒村は、知人に付き添って行った、避難先の明治座で焼死した人々の屍体が移された浜町小学校のようすを描いています。
「教室であったと覚しい焼け跡には、黒こげになった丸太のような死骸が散乱し、わずかに転がっている鉄兜の位置によって頭部の所在を弁別しうるに過ぎない。その焼けて小さくなった真っ黒な顔面に、白い歯がむき出されている頭部は、黒焼き屋のショウ・ケースに並んでいた猿の頭を思い出させた。そういう室を幾つか通り抜けて、校庭へ出てみて驚いた。何百とも分からぬ累々たる死骸の山なのである。明治座の中で蒸し焼きにされた骸は赤くただれたような色をして、色々な格好に曲がった四肢のところどころに、着衣の切れっぱしが張り付いている裸身の堆積は……」
さらには5月末のB29、250機の東京大爆撃。
このころ、寒村が日頃抱いていた疑問がふたつありました。つまり、
・ラジオが空襲警報を放送するとき、あと何分で敵機が東京上空に侵入するか分かっているのに、なぜこちら側から攻撃しないのか?
・空襲が始まると、しばらくは高射砲の音が聞こえているが、すぐにぱったり止んでしまうのはなぜか? というふたつです。
これに対して、軍隊に勤める知人の息子は、
日本の飛行機が足りないため、また高射砲1門につき弾丸5発と制限されているため、と答えています。
日米開戦後4ヵ月とちょっとで、もう、最初の爆撃を受け、その後は6月のミッドウェー海戦の失敗、翌43年2月のガダルカナル敗退と続きますが、国民に対しては事実を知らせず、ただ、「口封じ」作戦が敢行されていきます。
考えてみれば、2.26事件の後、父もその中に入る、いわゆる反乱軍兵士たちが大陸の最前線に送られて、さらには通常の2倍の兵役期間を課せられたのも、「口封じ」作戦に沿ったものなのでしょうね。
治安維持法の、とりわけ1941年の改定で実現した、非転向のまま刑期を満了したものは、再犯防止のために拘禁し続けるという「予防拘禁」は、口封じの最たるものですね。
そして共謀罪。
これが「口封じ」に使われない、という保証はありません。成立しただけで、きっと口封じは効いてしまいそう。ただでさえ、今でも自主規制やらなにやらで、マスメディアの口封じは成功しているというのに。
最近のコメント