« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

口封じ

_105_1  寒村自伝には日米開戦からの4年間の記録は言葉も少な目です。この間のことを、彼は次のように言ってます。

「大逆事件後の弾圧が苛辣を極め、社会主義の間にいわゆる転向の走りが出た当時、堺先生は私に「黙って忍んでいることも、また勇気を要することなのだ」といわれた。私はその言葉を唯一の力綱に隠忍してきたのだが、一面では無為に対する自責と無力に対する自覚との矛盾に苦しんだ。」

 それでもわずかですが、戦時中の日常生活がうかがわれる話がいくつかあります。 

 どなたかが、ブログで、NHKの朝ドラは戦争中の話だったな、戦争中でもあんな呑気なことをやっていたのかな、というようなことをいわれていました。

 1942年(昭和17年)4月のことですから、開戦からまだ半年も経っていないときのこと。

 寒村は人の案内で、元柳沢吉保の屋敷、六義園を逍遙していて、はじめて米軍機の襲来を経験しています。ドゥリトルが「ほとんど掠めるように疾過して全面の森の梢スレスレに飛び去った」という話です。

 翌43年には、天丼や天ぷらそばがコロモばかりで、たまに中味が入っていれば煮干し。大金を投じた下駄は歯がのり付け、台が3つに貼り合わせてある、とんでもない粗悪品だ、と嘆いています。

 食堂も「外食券」なしでは利用できなくなりますが、食料の配給券を外食券に替えると、砂糖も炭も手に入らなくなります。当時は燃料といえば炭でしょうから、当然外食はほとんど不可能という状態です。

 配給の薄黒い芋の粉は練っても固まらず、コウリャンの入った米は色こそ赤飯だが、どうにも喉を通らない、とこぼしながら、敗戦直前の東京では庭にサツマイモを植えています。 

 とうの昔に砂糖を味わえなくなっているのに、砂糖は人体に有害だ、と唱える学者がいたり、乏しい食料事情から前々から雑草も食べていた庶民に、雑草の中には栄養になる種類があると説く学者がいたり。

 配給のタバコの中にはイタドリ、うどんの中にはドングリが混ざり、 せっけんの配給がなくなる。

 そんな苦しい生活の一端がつづられています。

 六義園で遭遇した米軍機の爆撃は、その後激しさを増し、ことに44年以降は「日をおうて熾烈を加え」ていきます。

 そして45年3月9日の東京大空襲の翌日、寒村は、知人に付き添って行った、避難先の明治座で焼死した人々の屍体が移された浜町小学校のようすを描いています。

「教室であったと覚しい焼け跡には、黒こげになった丸太のような死骸が散乱し、わずかに転がっている鉄兜の位置によって頭部の所在を弁別しうるに過ぎない。その焼けて小さくなった真っ黒な顔面に、白い歯がむき出されている頭部は、黒焼き屋のショウ・ケースに並んでいた猿の頭を思い出させた。そういう室を幾つか通り抜けて、校庭へ出てみて驚いた。何百とも分からぬ累々たる死骸の山なのである。明治座の中で蒸し焼きにされた骸は赤くただれたような色をして、色々な格好に曲がった四肢のところどころに、着衣の切れっぱしが張り付いている裸身の堆積は……」

 さらには5月末のB29、250機の東京大爆撃。

 このころ、寒村が日頃抱いていた疑問がふたつありました。つまり、

・ラジオが空襲警報を放送するとき、あと何分で敵機が東京上空に侵入するか分かっているのに、なぜこちら側から攻撃しないのか? 

・空襲が始まると、しばらくは高射砲の音が聞こえているが、すぐにぱったり止んでしまうのはなぜか? というふたつです。

 これに対して、軍隊に勤める知人の息子は、

 日本の飛行機が足りないため、また高射砲1門につき弾丸5発と制限されているため、と答えています。

 日米開戦後4ヵ月とちょっとで、もう、最初の爆撃を受け、その後は6月のミッドウェー海戦の失敗、翌43年2月のガダルカナル敗退と続きますが、国民に対しては事実を知らせず、ただ、「口封じ」作戦が敢行されていきます

 考えてみれば、2.26事件の後、父もその中に入る、いわゆる反乱軍兵士たちが大陸の最前線に送られて、さらには通常の2倍の兵役期間を課せられたのも、「口封じ」作戦に沿ったものなのでしょうね。

 治安維持法の、とりわけ1941年の改定で実現した、非転向のまま刑期を満了したものは、再犯防止のために拘禁し続けるという予防拘禁」は、口封じの最たるもですね。

 そして共謀罪

 これが「口封じ」に使われない、という保証はありません。成立しただけで、きっと口封じは効いてしまいそう。ただでさえ、今でも自主規制やらなにやらで、マスメディアの口封じは成功しているというのに。

  

| | コメント (7)

寒村の見た召集風景

 Photo_25 日米開戦以来、召集された兵士を送る光景は毎日のように見られた、と寒村は語っています。

 ある日の上野駅、早稲田の学生の一団が、白い布を肩から斜めにかけた学生を取り囲んで、酔いにまかせて肌脱ぎになり、狂ったように乱舞していたそうです。

 その時歌っていた歌が、「品川女郎衆は十匁、十匁の鉄砲玉、玉屋が(どうとやらで)スッポンポン」という俗謡で、出征兵士を見送るような、「勇壮な意気組や愛国的な精神の発露などは少しも認められず、絶望を紛らすヤケクソな付け景気とより感ぜられない」と彼は書いています。

 たまたま信州上山田駅では、「見送りの団体はなく、カーキー服の肩から白布を襷にかけ片手に奉公袋を提げた出征兵士と、赤ん坊を背負い1人の男の子の手を引いた細君らしい婦人の一行」と出会います。

 その一行の先頭には男の子がひとり、ハーモニカで軍歌を吹奏しながら停車場をさして進んできます。そのハーモニカ少年の健気な姿は、後々までも寒村の記憶に焼き付けられることに。

 対照的な2つの出征兵士の光景……

 送り出す学生たちは、いずれ自分の番が来ることを承知していたでしょうし、稼ぎ手を奪われた母と子ども3人の一家は、その後の生活に思いを巡らしながら、あるじを見送ったことでしょう。

 学生たちが踊りながら歌う唄が、軍歌でなく、唱歌でもなく、俗謡であったことが、酔いの力で生身の人間性をさらけ出していることをうかがわせます。本音はこっちにあり、です。

 そして「国を守る」ことが「愛する人を守る」ことと矛盾しことは、親子5人の出征風景に象徴されています。

 ちなみにこの唄、博多どんたくで歌われるようです。歌詞は、「ぼんち可愛いや寝んねしな 品川女郎衆は十匁
十匁の鉄砲玉 玉屋が川へスッポンポン」というのが正解。

(この唄は「しりとり歌で、江戸で流行したのは幕末かららしい。「品川女郎衆は十匁」の歌詞から『国々色里あたい付』をみると、品川は文化・文政頃がこの値段になっている。この歌の元文は長く「牡丹に唐獅子、竹に虎、虎を踏まえた和唐内…」から始まって延々と続く。そして最後のところに「坊やはよい子だ寝んねしな、品川女郎衆は十匁…」と出てきて、この後にも歌は続く。これが「ぼんち可愛いや…」と大阪言葉に変わったのは明治になってから。」と「博多どんたくギャラリー」で解説されているそうです。)

(写真のバラは、デンティベス。一重のバラです。)

| | コメント (13)

教育に、さらに手を伸ばしてきたこの国の政治

_114 _115 ツルバラが咲き始めました。楽しみ……

 でもちっとも楽しめないのが、この国の政治。

 閉塞感が、いやが上にも増します。

 今日の毎日の朝刊。第1面の大見出しが、

免許更新制 現職教員にも適用 文科省 中教審に報告へ」です。

 ということは、これから教員になろうという人は、更新制が適用されることになっている、ということです。

 この制度が現職にまで適用することができるのかどうか問題だったようですが、とにかく文科省は、法的にも可能だと考えているようです。

 中教審は昨年12月の中間報告で免許更新制を導入するとともに、

・指導力不足教員などに対する人事管理システムを早急に構築する

教員免許を剥奪する条件を整える

・教職10年の経験がある教員に対しては、ここの勤務成績に応じた研修を実施する

等々を提言している由。

 教育基本法が改定されて、さらに「教員の資質向上」を名目に、こうした制度が実際に運用された場合、一体どういったことが起こるのか、この国の過去を思い起こせば、容易に推測がついてしまいます。

 杞憂と思いたいのですが、このところの国会の動きを見れば、不安は募るばかりです。

 

 

| | コメント (5)

新たなる怪談――「ふるやのもり」ならぬ「共謀罪」、「まんじゅう」ならぬ「愛国心」

_117_2 _119 雨あがりに、さつきがきれいです。

 サツキが終わり、カサブラカとあじさいのつぼみがどんどん太って咲き出す頃には、梅雨の季節に入っています。

 この頃空き巣が多いのよ、とはスポーツクラブで時折話をする、お隣の町内の方。その空き巣がどうも若い人らしい。

 この町内では、2月にお年寄り宅が襲われて、おばあさんが後頭部を糸切りばさみで刺されて亡くなられています。当初は髪の毛に隠れてそれがわからず、レントゲンでやっと判ったという話。

 そして私たちの世代が顔を合わすと、年金はどうなるのかしらねえ、とため息交じりの声があがります。

 まだ建ってからさして年月の経っていない家の厨房設備を新しいものに替えたとか、景気のいい話は年金世代ばかり……でも、同じ庶民のはなし、世代間で反目しあってはいけないよね、と私。

 お年寄りの中には、収入の少ない子ども家族のために、少しでも財産を残そうと努める人もいます。

 何だかこれからは、私たち弱いものは、互いに助け合ってなんとかやり過ごさなければいけないような時代がやって来るような気さえします

 そこへ、やれ「愛国心だ」「共謀罪だ」とタガがはめられて、声を潜めて、息を殺して生活をしていかなければならないとすれば、長生きは嫌だぁ! と、思わず口を衝いて出てきてしまいます共謀罪だ」というタガがはめられて、声を息を殺して生活をしなければならないのか、と考えると、長生きは嫌だぁ、と思わず口を衝いて出Kyoubouani_1

 雨の夜に怖いのは、強盗よりもこわい「ふるやのもり」、ならぬ「共謀罪」。なぜって、雨の日も風の日も、曇の時も晴れの時も、いつでもこわいから。

 「まんじゅうこわい」どころか、上から鼓舞される「愛国心」のほうがまだこわい。「国を愛する」といえば聞こえがいいけれど、オブラートが溶ければ、「国を操るものへの忠誠心」の苦い味が口中に広がる。

 昨日5月24日の毎日新聞に、4月29日に死去された経済学者J.K.ガルブレイスさんの最晩年のインタビュー記事が載っていました。

 リベラルと保守の対立については、

「大いなる矛盾」だと断定。

「対立は望む所だ。我々はたくさんの人々の生活を豊かにした。その結果、彼等は保守になった。安定した豊かな人の多くはそうなるものだ。我々がリベラルとして成功すればするほど、反対派を作り出したわけだ」

 さらに、

もっとも貧しい人々の助けとなる福祉、保健、教育への支出こそ、人間的な価値を持つ。現代の良き政府の本来の政策である

 といわれています。

 愛国心をいう前に、首相以下政権を担当する方々は、このガルブレイスさんの言葉を噛みしめていただきたい。

 つねづね、今でも恵まれた層の人たちが、なぜ今以上のものを求めようとするのか、疑問に思っていました。最近気づいたのは、彼らの目指すのは、世界ではないか、ということ。

 グローバルな現代のこと、「寂しがりや」といわれる「お金」が、よりお金のある所に集まって、世界を股にかけた資産蓄積が実現中なのでは? 

 ためしに、毎年フォーブス誌上で発表される世界長者番付を見てみました。

 いましたいました。資産10億ドル以上の691人のうち日本人は24人。

 中にはTVコマーシャルで有名な消費者金融のオーナーが4人。現代の世相をよく反映していますね。ちなみに、「サラ金」とキーボードで入力すると、すかさず「不快用語」という注意書きが現れます。表面の言葉をいじるだけなのは、愛国心と同じです。

Kyoubouani_2             Kyoubouani_4            Kyoubouani_5            

| | コメント (8)

明治憲法に未練恋々

_111_4  1946年4月、戦後初の総選挙で寒村は社会党から立候補して当選。

 この年の8月、現行憲法は衆議院本会議で賛成421票、反対8票の圧倒的多数で可決されました。この時、衆議院帝国憲法改正案委員会委員長で、修正案作成のための小委員会の委員長でもある芦田均について、寒村は次のように記しています。

「新憲法が本会議で可決された際、委員長の芦田均が委員会の審議経過と結果を報告して、民主主義的な新憲法を讃美した後、旧憲法に対して、惜別の情に堪えないといって声を詰まらせた

 これを見た寒村は

「何を下らぬことをいっているんだ。日本国民が天皇神権的な旧憲法の桎梏から解放されて、民主主義的体制の基礎を築く新憲法を制定する際、旧憲法に恋々たるグチをこぼすとは何事だ」と、ひとり呟きます。

 1940年に大政翼賛運動が起こったときもこれに反対したリベラリスト、芦田均でさえ、明治憲法に対する執着心から逃れられなかったことに驚きます。

 すでに敗戦間もない1945年11月に結成された「日本進歩党」は、その綱領に「国体護持」を掲げ、幣原喜重郎内閣(1945年10月~46年4月)の与党的存在でした。

 この内閣で、新たな憲法の草案として、明治憲法の第3条の字句を修正した(第3条 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ不可侵」とかえた)だけの、いわゆる「松本案」が示されます。

 この案を中心になって作った松本蒸治の経歴を見ると、実に華々しいことに目を見張ります。

 日本国憲法の誕生に、その経歴を見ると、

 1900年東京帝国大学卒業。1909年同大教授。1919年帝大を辞して満鉄に移り、1921年副社長となる。1923年第二次山本内閣で法制局長官。1924年以降1946年まで貴族院議員。1934年斎藤内閣商工大臣。その他、多数の会社の役員や日銀参与・理事等を務める。この間、商法改正やその他の立法に貢献した。

 とあり、さらに1946年の公職追放を経験したことも記されています。

 芦田均の経歴も同じようなものです。

 外交官、政治家。京都府出身。東京帝国大学卒業後外務省に入り、ロシア・フランス・トルコ・ベルギー大使館などに勤めて1932年に辞職。同年の総選挙で当選し、立憲政友会に所属。以後死去まで衆議院議員の地位にあった。1933年から39年までジャパン・タイムス社長。戦後すぐに鳩山一郎らと新党樹立を計画し、1945年11月日本自由党結成。(この後もいろいろ続きます)

 ちなみにオザケンこと、ミュージシャンの小沢健二も、この芦田均の閨閥に連なります。

 国体護持の国体とは、天皇に主権を置く明治憲法下での体制を意味し、国体護持の意思は戦後もずっと、保守政党のあいだに受け継がれていきます。

 国体護持の呪縛、とでもいえばいいでしょうか。

 支配層の明治憲法に固執する感性と思考はいったい何なのでしょうか。なぜなのでしょうか。

 今の体制でも十分に恵まれている彼等が、なぜ戦前回帰の意思を持つのでしょうか。

 敗戦と占領によって頓挫したことへの怨念でしょうか。

 それまでの己が呼吸してきた生と社会への郷愁。

 また、敗戦と占領で、その生と社会を否定されたことへの憤りでしょうか。

 さまざまに考えられますが、何よりも、

 天皇という抽象的存在に権力が集中したこが、彼らにとって良かったのではないでしょうか。都合が良かった、といいかえた方が適切かもしれません。

 この天皇とは、現実に生を享けている生身の人間ではありません。

 あくまでも、抽象的・神話的存在です。

 この現実に生きている人間としての天皇と、抽象としての天皇という存在は、その時々で、二重になったり、一部重なったり、あるいはまったく別の存在として、彼らの頭の中でごく自然に処理されます。

 抽象的存在としての天皇は神に値します。もう、宗教的存在です。

 この存在が現実の政治的権力を握るとしたら、権力を志向する勢力にとって、こんなに魅力的なものはないでしょう。

 国体護持にこだわる勢力の、あの執拗さは、どう考えても理性ではなく宗教的なものを感じてしまいます。

| | コメント (10)

共謀罪から、人民戦線事件を思い出す

_007  ローズマリーのピザを作りました。上に載っているのが、粉チーズに、ローズマリーの花と、刻んだ葉っぱ。ぱりぱりして、お茶の飲みながらでも、またこれからの季節、ビールのつまみにも、ちょうどいいのです。

 今日の話は、このピザとは全然関係のない話ですが……

 共謀罪の危険性がいろいろと語られている折ですから、寒村が実際に経験した、第2次世界大戦前夜のねつ造された治安維持法違反を理由とした検挙――人民戦線事件――について、お話しします。

 1933年(昭和8年)は、寒村が師と仰いだ堺利彦が年初に、年末には父親が他界した年ですが、カタストロフィの序章のような出来事が次々に襲って来る時代でもあります。すでに前年、満州国建国宣言があり、5.15事件も起こっています。

 3月に日本は国際連盟を脱退。ドイツではナチスが政権を獲得。そして、ともに労働運動を闘ってきた仲間が、ひとり、またひとりと転向声明を出していきます。

 1935年には向坂逸郎らと月刊誌『先駆』を出すも、3号で廃刊。

 1936年、妻、玉が倒れますが、この年は2.26事件が起き、ヨーロッパではスペイン内乱が勃発。日独防共協定が締結。

 そして1937年、イタリアが加わり、日独伊防共協定が締結されます。

 その年の12月、日本軍の南京陥落が伝えられた直後、寒村は、人民戦線事件で旧『労農』同人ら400人と共に拘引されます

 「荒畑さん、電報です」の声に雨戸を開けると、警視庁の警官がどやどや押し入って家宅捜査。その後、病床にある妻を案じながら、寒村は何の嫌疑によるものか見当もつかずに、連行されていきました。

 「この弾圧が大きな時局変転の前触れではないかと、漠然とした予感」を感じながら。

 特高室では岡田嘉子夫妻の樺太越境を初めて耳にし、北部中国の兵火がいよいよ拡大、スペインではフランコ将軍率いる反乱軍がバルセロナ包囲を目前にしていた、そんな時代です。

 検挙後はじめて、寒村は、すでに数年前に廃刊した旧『労農』同人に対して治安維持法違反が問われていることを知ります。

 ただし、『労農』はしばしば発禁処分を受けながらも合法的に発行されていて、その点について『改造』や『中央公論』といった他の雑誌と事情は同じで、そのために起訴されたという例は1つもなかったそうです。

 そして取り調べの過程で明らかになったことは、

 1927年の創刊以来一貫して変わらなかった『労農』の主張は、1935年のコミンテルンの決議によって、社会革命の準備のためになされたものだ、というのが検挙の理由でした。明らかに時間的な錯誤がある、と抗弁しても、何を言っても、特高側はまったく耳を貸そうとはしなかった、ということです。

 思想検事の作った、労農派の取り調べ要綱ができあがっていた由。

 このとき、高名な経済学者、大内兵衛氏も検挙されています。

 淀橋警察署に満1年拘禁の後、巣鴨拘置所に入獄した寒村たちは、共産党員が受けたような拷問にはあわなかったといいますが、彼は、警察の留置場に1年も拘禁するのは、暴力を用いない拷問と同じだ、と憤慨しています。

 そうした中で寒村が笑うのは、留置場で見た多種多様な刑事犯たちが、

「一朝召集令状に接するとたちまち名誉ある帝国の軍人、忠勇なる国家の干城と化する」ことです。

「留置人に赤紙が来ると、罪状の如何にかかわらず直ちに放免され、看守巡査や同房者が流行の軍歌を合唱して歓送する。」

 さらに迫害の手は、祈祷や賛美歌に先立って「見よ東海の」で始まる八紘一宇の歌を合唱する教団にまでも及び、「一切の非日本的、或いは自由主義的な思想にまでも拡大されるに至った」

 巣鴨での拘置所仲間には、『労農』同人ばかりか、代議士から大学教授まで、名士がずらーっと並んでいたようです。唯一幸いなことは、取り調べの予審判事が、随分と同情を寄せて親切で良心的だったこと。ただしその判事も、予審終結に際して、

「私の個人的な意見がどうであろうと、上席予審判事が全被告の陳述を総合して、最終の決定をくだすのですから」といい、そのとおり、予審結審の折には、寒村たちはみな、有罪を宣告されます。

 人間一人ひとりの善意ではどうにもならない権力の厚い壁

 この国は、明治10年代の民権派の手になる進歩的な憲法草案を持っていると同時に、こうした戦時体制強化のための無茶な検挙、弾圧の歴史も持っています。

  だからこそ、権力の暴走を許さない制度を作り上げていないといけないんですね。

 憲法上は一応三権分立ということになっていますが、行政改革の旗印の下、内閣の機能が大幅に強化されましたし、議院内閣制の下では与党の総裁が総理大臣を兼ねている上、昨年の選挙では巨大与党が誕生してしまいました。

 行政と立法が限りなく近い存在だ、といってもいいのではないでしょうか。三権分立のバランスはとうに崩れてしまった感さえします。

 「改革」というと、ホリエモンの改革Tシャツに象徴されるように、なんとなく良いことのように受け取ってしまう私たち。

 行政改革とは何なのか、何であったのかというと、どうも行政機構のスリム化と内閣機能の強化という2つの言葉で言い表せるようです。

官僚主導で行われていた政策形成を本来の担い手である国民の代表である政治家の手に取りもどそうとするもの」ということが、東京大学公共政策大学院の森田朗教授の説明にありました。教授は実に多くの審議会等の委員をしてらっしゃいます。

 理屈の上ではそうかもしれません。でも、机上の論理、という印象がどうしてもぬぐえません。政治家をそこまで信用していない、というよりできないのは、この国の悲劇でしょうか。

 おまけに行政機構のスリム化を目指して小さな中央行政府を実現しようとしているのも、どうも胡散臭い、なんだか違うぞ、と、庶民もそろそろ気づき始めていませんか。

| | コメント (13)

日本国憲法の草案作りには、65年の歴史がある

 森喜朗元首相のHPを見ると、昨年11月22日付 で、「自民党の原点であり、大義である」といって、立党50年記念大会で、党新憲法起草委員会委員長としてまとめた新憲法の草案を発表したしたことが大きく載っています。

 現在の日本国憲法は戦後の占領下、連合国軍総司令部(GHQ)がわずか9日で草案をつくったのに対して、「自民党は(自主憲法の草案をつくるまで」50年かかった」と指摘し、「半世紀にわたる長い懸案であった新憲法の草案を初めて条文化した形で公式に示せることは大きな喜びです」と述べたそうです。

 あらあら、まったく、ものは言いようですが、詭弁を重ねての開き直りはいつものこと。

50年かかったのは、明治憲法の亡霊のような内容を、いかにうまく草案に盛り込むか、また、いかにうまく世間に詭弁を浸透させるか、戦略上の都合だったのではないでしょうか。

 現憲法も、けっして9日間で草案ができたわけではありません。先人たちの、立憲主義に対する熱い思いを結実させた財産がこの国にあったればこそ、たった9日間で草案が完成したのです。

 そうしたこの国の歴史を、少なくともこの国でリーダーシップをとる政治家の方々は知っておいていただきたい。

 現行憲法を貫く精神は、明治新政府発足からまもなくの民権運動の中に見られますし、条文そのものも、明治10年代に現れた40以上もの私擬憲法の条文から生まれたものがたくさんあります。

 民権運動の中から生まれた憲法草案でも、1881年に作成された植木枝盛の憲法草案、東洋日本国国憲按(とうようにほんこくこくけんあん)は秀逸です。

 精神的自由権から経済的・身体的自由権まで謳い、「無法に抵抗することを得」といって、「国家権力の不当な行使に対して抵抗する国民の権利」を保証する抵抗権をも規定しています。

 さらにすごいのは、

「政府国憲に違背するときは日本人民は之に従わざることを得」(第70条)、
「政府官吏圧政を為すときは、日本人民は之を排斥するを得。政府威力を以てほしいままに暴虐を逞しくするときは、日本人民は兵器を以て之に抗することを得」」(第71条)

「政府ほしいままに国憲に背きほしいままに人民の自由権利を残害し建国の旨趣を妨ぐるときは、日本国民は之を覆滅して新政府を建設することを得」(第72条)

 といって、革命をも容認していること。

 明治新政府の強権政治に悲憤慷慨する植木たち民権論者の姿が思い浮かぶようです。

 こうした植木たちの努力を考えると、現行憲法の草案作りには、実に65年の歴史があります

 1889年(明治22年)、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたものの、民権派が求めていたものとはあまりにかけ離れた内容でした。

 翌年の1990年に召集された第1回帝国議会は、民権派の議員の方が多数を占めて、政府と対立しています。

「自由は取るべきものなり、貰うべき品にあらず」といった中江兆民の言葉をもう一度噛みしめると同時に、この言葉をまた大にして叫ばなければいけない時代が繰り返されないように、しっかりと見張っていかねばなりませんね。

| | コメント (2)

愛国心とリア王

ふー……Photo_1共謀罪、今日の採決はありませんでした。でも、審議はこれからも続きます。なんとか廃案に持ち込んでもらいたいですね。  

さてさて、だいぶ前の話ですが、鈴木忠志さんの『リア王』はすばらしかった。

 地方に住んでいますと、こうした良質な演劇を楽しむことはあくまでも非日常的なものになりますから、かえって、感激も、首相をはるかに凌ぐのではないか、と思われます。

 リア王の話はよく知られています。鈴木さんのリア王の話はさておきまして、有名な冒頭部分、所領を譲ることを前提に、3人の娘の愛情を訪ねる場面がありますね。

リア王の、そちたちのうちいったい誰が一番予を愛してくれると言い得るか? という問いかけに対して2人の姉は、

 お父上に対する私の愛情は言葉などでは到底言い表わせません……
 あるいは、 私はお父上陛下を愛し奉ることにおいてのみ、ただそれだけに至上の幸福を感じております……

と答えます。が、これに対して末っ子のコーディリアは、

「何もございませんお父上。」

と答えて、自身のまごころを舌先で弄ぶことを拒み、老王の怒りをかってしまいます。

 その後の姉たちの裏切りと、リア王、コーディリアの不幸はよく知られ、その不条理とともに、王自身の愚かしさがよく語られます。

 愛国心も、コーディリアが心に暖めて、あえて口に出さずに胸に秘めたままにした、まごころとよく似ています。

 ただし、誰もリア王のように、私をどれだけ愛してくれるか、などと訊いておりません。訊かれることもないうえに、大声で『愛国心、愛国心」と叫んでいるのでは、2人の姉と同じです。

 私にとっての原風景は、生まれた家の2階から眺める、昔ながらの田園風景です。よく思い浮かべる、父や母や、周りに連なる人たちの笑顔です。

 私の根っこがあって、大切に思っているところは、その故郷ですし、現在の住まいがあるこの町ですし、この国です。それをわざわざ大声に出して言う必要があるでしょうか?

 さらにいえば、こうした愛着は、別に教わったものでもなければ、強制されたものでもありません。知らず知らずのうちに、私の心の奥底で芽生えて育まれたもの。

 コーディリアではありませんが、こころって、言葉として発して、自分の身から離れたら、なにか嘘っぽくなります。ましてやそれが、党利党略の具になれば、心なんてものとはほど遠いものになっています。

 そんなこと、選良のみなさんはご承知のはず。

 それでも、あえて固執するのは、なにか不快深いご事情でもおありでしょうか、と一度尋ねたいですね。

 

 

 

| | コメント (2)

小泉首相の役割は

_017 植えてから20年以上ともなると、ばらも根をしっかり張って強くなります。ほとんど防虫・殺菌剤を使わなくても、こうして咲いてくれるのはうれしい。

 さて、うんざり、びっくりすることの多いこの頃ですが、今日のびっくり。

            文科省、給与の一律優遇見直し

の見出しが、産経新聞データボックスの「教育を考える」中にありました。この5月15日付です。

 これによると、文部科学省は、人材確保法(こういう法律があったのですね。)の現行制度を見直しして、優秀な教員に給与を重点的に配分する制度を導入するとともに、教員の評価制度を取り入れて、「教育現場を活性化したい」らしい。平成20年度をめどに実現を目指すとのこと。

 アサヒコムの同種の記事では、

 2月27日付の記事によると、06年度中に文部科学省が教員給与に関する法令を整備する方向性を打ち出す方針でいる、とあります。

 すでに、宮城、富山、岐阜、岡山、香川、愛媛、佐賀の7県教委が、優秀な教員を表彰して特別昇給や勤勉手当の増額などをしていて、また東京都などは、人事考課を給与に反映させている、とのこと。

 文部科学省の意図が透けて見えるような記事ですが、この、表彰された教員の授業をちょっと見てみたいなあ、という気がします。

 昔、といっても介護保健制度ができる前の話に過ぎませんが、老親の介護を「誠実」に遂行してきた「お嫁さん」を表彰する制度もありました。

 私自身、かなり前の話になりますが、6年間ほど夫の両親を介護してきた経験がありますから、表彰する方は気楽なもんよ! と毒づきたくもなりますが。

 それにしても、評価制度と同時に給与優遇制度をつくるという話、何かあぶないにおいがします。

 踏み絵としての国歌・国旗制度をつくって、教育基本法改定で愛国心忠誠心を煽り、今度は経済面から外堀を埋める……

 2001年に藤原肇さんは、「小泉首相の役割は日本解体だ」といわれています。また、当時の日本は「賤民資本主義だ」とも。これは今でも当てはまります。おそらく、2001年当時より一層あてはまるのではないでしょうか。

 そして教育の解体は、未来の日本の解体に繋がるのではないでしょう。

「ここで言う賎民とは、社会の中に寄生して社会を食い物にする人たちのことです。あらゆる党利党略を使って利権を漁っている日本の政治の姿は、「賎民資本主義」という概念に収敏していく」

「日本人は誰も知らないが、アメリカでは彼(小泉純一郎)は〝隠れ統一教会〟と見られています。五、六年前のデータですが、統一教会がアメリカの大学を出た優秀な連中を四〇〇人ほど、自民党の議員秘書に送り込んでいます。つまり、ここ数年、表面的には自民党政治が行われていたのですが、裏では統一教会が動いています。そこへ公明党が連立を組んでいる。これは私だけの見方ではなく、日本にいる外国人特派員たちの見方でもあります。 」

とも藤原さんがいわれています。

 そういえば、統一教会関係からの献金も色々あったようですし。

 そして数に頼んだ暴政で、民主主義ばかりか、この国を解体。

 パンとサーカスで大衆の目をそらして、ここまで来てしまいました。これからは、パンもサーカスも、今までのようにはいかないかもしれません。重税が待っていますし。

| | コメント (7)

民主党と共謀罪――一体どうなっているの?

Photo_23  河北新報社によると、

 民主党の小沢一郎代表は15日夕、山形市内で記者会見し、「共謀罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案について「犯罪の構成要件が漠としていて法定主義に反し、基本的人権を侵害する恐れがある。司直の裁量の余地が多すぎる」と批判した。

ということですが、
今日(17日)のアサヒコムの速報によると、

民主党は17日午前、法務部門会議を開き、与党との修正協議に向けた再修正案をまとめた。共謀罪の適用対象となる「組織的犯罪集団」の定義を改め、与党側に歩み寄った

という報道がなされています。

 すぐに民主党のサイトへ行くと、

(江田参院会長)は、共謀罪を含む条約刑法や医療制度改革法案の採決が迫ってきている中、党首討論も開催されるとして、特に共謀罪について、「合意をしたと疑われるだけで警察が捕まえに来る」などとして、その内容を改めて批判。「厳しく対応していく」とし、日本を監視社会にしてはいけないなどと決意を述べた。

とあります。

 一体どうなっているのでしょう。

 衆議院と参議院では対応が違うのでしょうか。再修正案もまだまとめた段階ですから、提出されていないのでしょうか。それで、まだWebsiteには載っていないのでしょうか。

19日に法務委員会で強行採決、などという話もあります。それに、共謀罪に負けず劣らず凶暴な「サイバー法案なるものが民主党のサイトに載っていました。心配です。

治安維持 共謀罪で パーフェクト
市民に「見せない」「言わせない」「聞かせない」の三ない運動で恐怖政治を実現しよう!!(
©橋本勝さん)

(マンガとこのコピー、情報流通促進計画byヤメ記者弁護士さんからお借りしてきました。)

| | コメント (5)

みな、思い思いの青春を生きてほしい

_084 _091_1 1923年(大正12年)、関東大震災が起こったとき、寒村はソビエト連邦に滞在中でした。モスクワではトロツキーの演説も聴いています。

 ちょうどその時、スターリンが着々と権力掌握の策略を巡らしているのを心痛するレーニンは病床にありましたが、その事情を寒村が知るのは後のことです。

 9月上旬に大震災の報に接して上海経由で帰国。自宅に帰ったときは11月になっていました。そこで妻の玉から震災当時の話を聞かされます。

 虐殺の前日、大杉が末の子を乗せた乳母車を押しながら訪ねてきて、

「お玉さん、寒村がいないでも、僕らがついているから心配することはないョ」と励ましたそうです。

 この翌日、大杉は妻の伊藤野枝、甥の橘少年と共に無惨な最期を遂げましたが、その10日以上も前に、労働組合関係者10名が、また自警団員ら6名、朝鮮人多数が、亀戸署内や荒川放水路で殺されています。

 そのため、寒村を見た瞬間の妻の言葉は、「何だって帰ってきたんです」というものだったといいます。

 大杉が寒村の妻を見舞ったときに連れていた子が、松下竜一さんの『ルイズ――父に貰いし名は』のルイーズこと伊藤ルイさんですから、ルイさんは、ちょうど私の母と同い歳です。

 友人が親しかったので、晩年近く、何度かお目にかかっていますが、目の大きなきれいな方でした。

 敗戦時、ルイさんも母も23、4歳……

 父は『人間の条件』の主人公の梶と同世代で、入営の翌月には2.26事件に巻き込まれています。麻生3連隊に所属していましたから、上官に率いられて、何か何だか分からないうちに反乱軍の一員にされてしまったわけです。

 反乱軍に加わったということで、通常なら2年で済むところを、倍の4年、兵役に服さねばなりませんでしたし、事件後1ヵ月は兵舎に缶詰にされて肉親との面会もできず、すぐに大陸の最前線に送られています。

 ただ、大陸に送られる直前に、一時、帰宅を許されたという話は、当時まだ小学生の叔父から聞きました。父は1915年(大正4年)生まれですから、敗戦時は30歳です。

  あまり戦場の話をしなかった父ですが、私が中学生の時、流行の米国製TV映画『コンバット』を見るたびに、「本当の戦争はこんなもんじゃない」と、言うのが口癖でした。

 私の親の世代の青春は、まさに戦争の真っ直中です。

 それを思うと、私は私で、いたたまれない気持になります。

 自分自身が親になって、自分の親たちにも青春らしい青春を味あわせてやりたかった、と思うからです。青春の仕上げが軍隊だなんて、ひどすぎます。古参兵の新兵いびり……しょうもない理由で往復ビンタを食らうのは日常茶飯事……理不尽なことにも疑問を持たないようにしつけられるわけです。戦場で人が殺せるように。

| | コメント (4)

近代化の陰に

Photo_22 日本のラン、石斛(せっこく)。今年もまた、その可憐な姿を見ることができました。

 私はときどき、明治からあの昭和の敗戦にかけて、日本という国が大国を目指さなかったら、拡張主義をとらなかったらどうなっていただろうか、と考えることがあります。

 富国強兵と殖産興業の旗を振ってしゃにむに近代化を成し遂げようと強権を発動した歴史が納得できません。

 いくら産業を興しても、大多数のまずしい日本の国民はその恩恵にあずかることが少なかったのではないでしょうか。むしろ犠牲が大きかったのでは。足尾鉱毒事件から水俣のチッソ、女工たちばかりか一般労働者の過酷な生活……労働争議も起こっています。

 米騒動が起きたのも、1度や2度ではありません。有名な1918年(大正7年)に始まるものは、大規模なものだけでも3度目で、同時に炭鉱暴動も引きおこされています。そして警官隊との衝突。軍隊による鎮圧。

 この年はまた、シベリア出兵のあった年です。すでに1月、居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦が派遣され、5月には本格的に出兵。最後の撤兵まで、あしかけ8年、戦費10億をかけ、3,000人を超える犠牲を払い、何の益もなく終わっています。

 居留民保護の名目は、ズデーテン・ドイツ人保護の名目でチェコに侵入したナチス・ドイツも使っています。いわば常套手段です。そしていたずらに戦費と生命が消費されるのは、イラクの米軍と同じ……。

 治安維持法成立以前にも、政府批判するものを捕らえる網はいくつもありましたし、警察組織もできあがっていました。民権派を取り締まるための讒謗律は、すでに1875年に公布されています。悪名高い特高課が警視庁に設けられたのは、大逆事件の翌年、1911年の8月です。

 そして治安維持法も2度の改定を経て、取り締まり対象をどんどん広げていき、1941年の改定では、とうとう予防拘禁制度も導入されました。

 こうした強権政治によって整備した法律網と体制のもとで、善男善女が見事に翼賛化していき、軍国少年・少女が育ちました。

 随筆家の岡部伊都子さんがよく書いていらっしゃる。

 1943年、出征間近の婚約者が、「こんな戦争間違っている。天皇陛下のためには死にたくない」と言ったとき、岡部さんは、「私だったら喜んで死ぬ」と答えたそうです。そして婚約者は沖縄で戦死。

 そんな加害者としての己を見つめて、岡部さんはこれまで、あの小さな体にむち打って、発言を続けてきたのです。

 その一方で、児玉誉士夫のような人が、上海で軍需物資を取り扱って不正を行い、巨万の富を得てました。父からも、よく聞いた話です。

 そしてこれが後の自由党結党資金になったとか。

 いつの世も、損するのは庶民ばかり。でも、そうさせてはいけませんね。

 

| | コメント (5)

廃刊に次ぐ廃刊、弾圧に次ぐ弾圧

Photo_21  1910年は、幸徳と管野の結婚に煩悶もんする寒村が赤旗事件による下獄を終えて帰京した年ですが、同時に、大逆事件に驚愕、衝撃を受けた年です。

 この年の12月、堺利彦は自宅に生活と運動の拠点として売文社を興し、ここで大杉も寒村も、大逆事件後の「冬の時代」をしのぎます。

 翌11年、1月24日、大逆事件被告12人の死刑が執行されます。このとき堺は悲憤やるかたなく酒をあおり、「杖をふるって軒灯をたたき毀しながら深夜の街上を彷徨した」といいます。

 上の写真はその売文社(自宅)前の堺一家。売文社設立時、娘の真柄は7歳です。

 堺利彦がルソーの『懺悔録』(または『告白録』)の抄訳を出したのもこの頃。ルソーの『告白録』といえば、中学生か高校生の私が、背伸びをして買い求め、読んではみたものの何か不消化に終わった思い出の本です。ディドロたち、百科全書学派の悪口も、ずいぶんとストレートに書いてありました。

 1912年(大正元年)、寒村は大杉と『近代思想』を創刊し、寄稿や広告にも恵まれ、順調に滑り出したようです。広告は、『実業の世界』、丸善、三越デパート、ライオン歯磨きなどがお得意さん。

 寄稿も、堺利彦を初めとして文人、才人がひしめいて、随筆からバーナード・ショーの翻訳、学問的評論、和歌までありました。若山牧水も歌を寄稿した一人ですが、近代思想に載った歌には牧水君の特色が出ていなかったように思う、とは寒村の言です。

 この平穏の生活に飽きたらず、「本性の謀反気がムクムク頭をもたげてじっとしていられ」ずに、寒村らは満2年で近代思想を廃刊にします。

 当時、第2次西園寺内閣が2個師団増設を強行に主張する陸軍のために倒れ、山県有朋を後ろ盾にした桂太郎が第3次桂内閣を組織しましたが、民衆はこれを藩閥の横暴と受けとめて、憲政擁護運動が起こっています。護憲運動の指導者は、政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らです。

  これには三井、岩崎(三菱)の2大財閥の争いも絡んでいて、三井が犬養毅、尾崎行雄ら政党勢力を援助していたと、寒村は伝えています。

 これに対し、桂首相は新党を作って悪あがきをしましたが、数万の群衆が国会を取り巻くにいたって総辞職を決意します。それも、このままでは内乱になる、と衆議院議長に諫められた上でやっと決心したこと。権力への執心、ひとかたならず、といったところです。

 議会では政府の弾劾がおこなわれ、院外では群衆と警官が衝突し、軍隊が出動しています。 

 桂の後を継いだ山本権兵衛内閣では、海軍高官と三井の重役連にからまる贈収賄疑獄、ジーメンス事件が起こって内閣不信任案が提出される一方で、群衆は4,000の警官と衝突。この時もまた、軍隊が出動。

 そうした世の動きを背景に、大杉と寒村は文芸雑誌の刊行を止め、労働運動の機関誌を出すことにします。

 1914年(大正3年)、第1次世界大戦が起こった直後に、月刊『平民新聞』が発行されます。が、初号から発禁。禁止の理由は「全紙面を通じて安寧秩序に有害だ」ということ。

 監視・妨害する警察とのいたちごっこを、寒村は、「もう平民新聞が合法的出版物なのは形式だけで、実際は秘密出版と少しも変わらない」と述べています。

 そして6号を出したところで月刊平民新聞も廃刊。

 次に、他の仲間も経営に加わり、平民新聞の性質を併せ持つ『近代思想』を復活させますが、これも初号を除き発禁の連続で、第4号で廃刊。

 週刊平民新聞、日刊平民新聞以来、廃刊に次ぐ廃刊、弾圧に次ぐ弾圧。それでも意気軒昂な寒村たちには驚くばかりです。でもいくら血気盛んとはいえ、実際のその胸中はどんなものだったでしょうか。

 藩閥、閨閥、政商、疑獄……権力と金力をほしいままにする、新政府発足時からの政権を担う人々とそれに連なる企業人、そして官僚。

 彼等は一体、ほんの一握りにも満たない寒村の仲間たちを、なぜそれほどまでに怖れたのでしょうか。

 

| | コメント (6)

詐欺だあ!

Scan10001jpg 我が家にも、とうとう詐欺の魔の手が忍び寄ってきました。

 あんた、何をしたんだ? とは外出から帰った夫の第一声です。手にした私宛のハガキには「民事訴訟特別告知書」と書いてあります。

以下はその文面です。(管理番号のところには、それらしきものが記してあります。)

  • 民事訴訟特別告知書

    管理番号( ) 

 この度、ご通知致しましたのは、貴方の利用されていた
契約会杜、又は運営会杜側から契約不履行による民事
訴訟として、訴状が提出されました事を御通知致します。
以降、下:に設けられた訴訟取り下げ申請期日を経て訴
訟を開始させて頂きます。このまま御連絡無き場合には、
原告側の主張が全面的に受理され裁判後の措置として
給料差し押さえ及び、動産物、不動産差し押さえを執行
官立ち会いのもと強制的に履行させて頂きますので裁判
所執行官による「執行証書の交付」を承諾して頂きますよ
うお願いすると同時に、債権譲渡証明書を一通郵送させ
て頂きますので、ご了承下さい。
 訴訟問題及び、訴訟取り下げのご相談に関しましては
当局にて承っておりますので管理課職員までお問い合わ
せ下さい。なお、ご本人様以外からの内容確認等は一
切お答えできません。以上をもちまして訴訟告知
とさせていただきます。
※訴訟取り下げ申請期日 平成18年5月12日
〒100-0013
東京都千代田区霞ヶ関2丁目6番地5号
法務省管轄支局民事管理事務局
0120-105-776(管理課)
受付窓口平日9:OO~17:00

 以上です。

 これが届いたのが11日で、期日は翌日に迫っています。

 慌てて記載されているところに電話しました。グラグラ腹を立てながら。

 心当たりがありませんから、訴状の内容を教えてください。取り下げ申請期日が明日になっているではありませんか!

 電話で応対するお兄さんの言葉遣いと口調がどうもおかしい……役人にしてはやけに締まりのないしゃべり方だ……背後で人の話し声が聞こえる……

 途中で夫に替わっても、訴状内容は教えられないという。期日は明日だ、といっても、大丈夫です、という返事。

 昼休みの時間が終わったら、友人の弁護士に電話しよう、と考えていてふと、詐欺ではないかしら? と思いつきました。ためしにネットで検索すると、ありました。法務省のHPにも載っています。

 考えてみたらおかしいところは随所にあります。

 コレクトコールの番号が載っているのを見て、夫は一瞬、裁判所も親切になったものだ、と思ったといいます。でも、役所がコレクトコールを使うはずがない。

 多色刷りもおかしい。

 こんな個人情報に関わることがハガキでくること自体変だ……などなど。

 まったく人騒がせな。

 それにしても、下手な文面です。主部と述部がかみ合っていません。

 でもこれでも、ひっかかる人がいるかもしれません。

 お気をつけください。

| | コメント (8)

議員会館を取り巻く――共謀罪緊急院内集会

じゅんさんよりTBいただきました。ありがとうございました。

緊急のことなので、急ぎここに転載いたします。もと記事はこちら。私は遠方でとてもいけませんが、お近くの方はお願いいたします。

【引用開始】

共謀罪阻止のために,会社や学校の帰りがけに,永田町駅で降りて,議員会館に立ち寄りませんか?下記の集会は,会館内で行われるため,入場者に限りがありますので全員が入れるとは限りませんが,例え,入れなくても,議員会館周辺に反対の人が詰めかけたということが大切だと思うのです。金曜日の夜ですが,何とか,一時間,自由を守るために使って下さい!

■■引用開始■■

「共謀罪」の強行採決に反対する!
超党派国会議員と市民の緊急院内集会

ご存じのとおり、「共謀罪」の審議が風雲急を告げております。 今週にも共謀罪を含 む刑法などの改正案が、衆議院法務委員会で強行採決される可能性が出ています。
 共謀罪は、600以上の主要犯罪について、犯罪が実行される前に単に合意したと言うだけで、犯罪を成立させてしまう極端な内容のものであり、現代版治安維持法とも、思想処罰法ともいわれる稀代の悪法です。また、共謀罪の捜査のためには盗聴捜査の拡大が計画されることは必至です。
 現在、国会内では与野党間で修正案をめぐる攻防が繰り広げられていますが、共謀罪が人権侵害につながる深刻な危険性をはらんでいることを、超党派の国会議員と市民が一緒になって訴える集会を開催します。共謀罪に反対し、廃案に追い込むべく、院内外の力をここに結集していきましょう。
ぜひ、ご出席、取材のほど、よろしくお願いします。

◆緊急院内集会◆
時   2006年5月12日 (金) 午後5時半~ 
場所 衆議院第二議員会館 第1会議室
       (地下鉄永田町駅・国会議事堂駅下車、会館入り口で通行証をお配りいたします)
発言  超党派国会議員・日弁連・市民団体 ほか


【 呼びかけ人 】 
糸数慶子(無所属・参議院議員) 
石井郁子(共産党・衆議院議員)
井上哲士(共産党・参議院議員)  
枝野幸男(民主党・衆議院議員・法務委員)   
江田五月(民主党・参議院議員・法務委員)
小川敏夫 (民主党・参議院議員)  
河村たかし(民主党・衆議院議員・法務委員)  
近藤正道(社民党・参議院議員)  
千葉景子(民主党・参議院議員・法務委員)  
仁比聡平(共産党・参議院議員・法務委員)  
平岡秀夫(民主党・衆議院議員・法務委員) 
福島みずほ(社民党・参議院議員)    
保坂展人(社民党・衆議院議員・法務委員) 
松岡 徹(民主党・参議院議員・法務委員)    
円より子(民主党・参議院議員)    

問い合わせ先 = 平岡秀夫事務所3508-7091  保坂展人事務所3508-7070  仁比聡平事務所3508-8333


■■引用終了■■

| | コメント (0)

大杉あれこれと軍隊

_013_1 ずいぶん昔のことになりますが、NHKFMで大杉栄の『日本脱出記』の朗読が続いたことがありました。

 _014_1 なにか気むずかしそうなイメージのあった大杉でしたが、内容はほとんど忘れて、この脱出記は結構おもしろい……という感覚だけが残っています。

 唯一覚えているエピソードは、アイロンを使って目玉焼きを焼いた、などというたわいもない話ですが、なんだか大杉の型にはまらない生き様をよく表しているような気がします。

 1908年6月の仲間の出獄歓迎会でこの大杉と寒村がいたずら心を出して、「無政府共産」とか「無政府」とかの白いテープの文字を赤地の布に縫いつけて竹竿にくくりつけたのを振り回し、検挙されたのが「赤旗事件」です。

 旗を持つ寒村に警官が飛びかかり、同士が救援に駆けつけ、「真夏の白昼、濛々と立ち上る砂煙の中に旗の影はたちまち表れたちまち消え」てもみ合ううち、仲間の4、5倍にのぼる警官が応援にきて、「帽子を飛ばし、衣服は破れ、素足になった私たちは高手籠手に縛られて拘引されてしまった。」

 仲裁に入った堺も検挙され、結局4名の女性を含む総勢13名が留置場に入れられたといいます。

 逆らう彼等に、とうとう警官は大杉と寒村を裸にして引きずり回し、殴る、蹴る、踏んづけるなどして、このとき大杉が悔し泣きに泣いたのを、寒村は初めて見たそうです。

 Photo_18 公判で被告等は無政府主義者かいなかを問われ、堺と山川以外は然り、と答えたということですが、寒村はそれを、「わずかに断片的な無政府主義の革命理論をのぞいたにとどまり」といい、意識的なアナーキストは大杉だけであったろうと語っています。

 結局、堺や大杉等は懲役2年、寒村は1年半。意外に重い判決に「負け惜しみも手伝って……無政府主義者万歳」を叫ぶ彼等の前で「裁判長の方がビクビクし、判決文を読む手がブルブル慄えて」いたということです。

 裁判官がなぜ震えていたのでしょうか。

 寒村や大杉たちが怖かったわけではないでしょう。

「無政府主義者万歳」というとんでもない禁句を被告たちに言わせてしまった己の立場を考えて、恐ろしくなったに違いありません。

 確か私たちは、義務教育で、1891年(明治24年)のロシア皇太子暗殺未遂事件に際して、「法律は国家生存の動脈なり」といって、法律を曲げるように要求する政府からの圧力をはねのけた大審院長の話を「司法権の独立」の見事な例として学びました。

 でもこの赤旗事件の判事は、そんな気骨のある人ではないようです。

 旗か幟の類を警官に奪われる事件は、つい先日、4月30日にもありました。

 デモ隊の「MAYDAY」の垂れ幕が奪われるだけでなく、サウンドシステムを積んだトラックが持ち去られ、さらには「公務執行妨害」等で3名まで逮捕されたようです。

 ところで、寒村らに懲役刑で与えられた作業は下駄の横鼻緒をナウというもので、ここでも大杉は器用さを発揮して一番早くて一番良い仕事をしたといいます。

 この赤旗事件で下獄していたことから、大杉、寒村等は大逆事件に巻き込まれずに済んだわけですが、13年後に大杉は、伊藤野枝、甥の橘少年(6歳)と共に、大震災後の騒然とした空気の中で甘粕大尉ら軍部に捕まり殺害され、遺体が古井戸に投げ込まれる事件が起きます。

 震災後の一連の虐殺事件を、寒村は「震災テロル」と呼んでいます。

 軍部はこの虐殺事件を隠しきれずに甘粕は軍法会議にかけられますが、この犯行自体が軍中央の命令とされています。

  そのためか、甘粕自身は大赦により約3年で刑期を終え、陸軍の官費で、単身赴任どころか妻をともなって2年間のフランス留学をしています。3年間の服役のご苦労さん代でしょうか。

 後に彼は大陸に渡って満州事変の仕掛け人にも連なり、1945年8月20日に自死するまで、彼の地で大いに権力をふるうことになります。ラストエンペラーで坂本龍一が演じている人物です。

 まったく、軍隊が関わるとろくなことはない、という思いが湧いてきます。

 幸徳秋水らの事件も、ときの首相桂太郎はかつての長州藩士ですが、軍人出身です。彼の下で、西園寺内閣が結党を許した日本社会党などの政治運動の弾圧が強化されていくわけです。

 明治以降の日本の軍隊の特殊性は、ヨーロッパのように旧来の支配層が軍部を掌握するのではなく、軍隊内の階梯を上っていくことで、平民が支配層にのし上がることが出来たことです。

 これも巧みな庶民統治のひとつですね。

 桂太郎も戦功で次々に爵位をとり、ついには韓国併合の功で公爵に上りつめています。

 末は博士か大将か、と立身出世を願う庶民が呟いているではありませんか(いえ、本当は「末は博士か大臣か」ですが)。

 そしてこの間の連休中に、日米軍事同盟はまた新たな段階に入ったようです。

 これについて詳しいことは、岸田コラムでお読みください。

 

| | コメント (5)

治安維持法を待たずとも

Photo_14 写真は、英国独立労働党首ケヤ・ハーデー歓迎会。

中列ケヤ・ハーデーから左に、管野須賀子、福田英子、堺為子、堀保子、片山潜、(2人おいて)堺利彦。

 前列3人目が寒村、ケヤ・ハーデーの左の子どもが堺真柄、その左に幸徳千代子、山川均、2人おいて幸徳秋水。

 幸徳秋水、管野須賀子の名は、戦後生まれの私の子ども時代でも、声を潜めて、なにやらおどろおどろしい感じで語られていたようなイメージがあります。

 そんな2人が、間違いなく血の通った人間で、社会の不正義に憤りを持っていた人たちだと知ったのは、だいぶ後のことです。

 この2人が刑死するに至るまでの周辺の事情を、「寒村自伝」をもとに、書いていこうと思います。

 管野須賀子は、「薄幸」というにはあまりに過酷な運命を背負っていたように思われました。

 少女時代に継母の奸計で男から凌辱されるなど幼少のころから苦労し、大人になっては事業で失敗した父と弟妹をかかえて、どうにかこうにか文筆業で生活の糧を得ていたようです。

 1906年、寒村19歳のときに、管野須賀子と寒村は、一時京都で同棲、その後東京で所帯を持っています。

 この年、「普通選挙の期成」を目的とする日本平民党、「国法の範囲内で社会主義を主張す」る日本社会党が組織されています。

 結党直後の東京市街鉄道3会社の電車賃値上げ反対運動で、党員その他21名が検挙・起訴されていますが、罪名は、兇徒嘯集罪でした。そして控訴はされるものの、第一審では無罪の判決をえました。

 年が明けてすぐ、1907年(明治40年)の1月、日本社会党の機関誌として、日刊「平民新聞が生まれます。

(下の写真、横長の方は、左の写真の下部を切り抜いたものです。)

Photo_16  創刊して1ヵ月ほどで、坑内員の待遇改善要求から足尾銅山の騒擾が勃発。

 Photo_17 この時編集部にいた寒村が戒厳令下の足尾町に入ると、軍隊が小隊に分かれて駐留し、宿という宿は軍隊の司令部、裁判官、警察官、新聞記者であふれていたといいます。

 みだりに軍隊を動かした政府の責任が追求されても、内務大臣原敬は、「坑夫の一部を教唆先導して暴動を起こさせたものがあり……」と、攻撃の矛先をそらしますが、その年、暴動を伴った大きな労働争議だけでも20件を数えたとのこと。

 幸徳秋水が普通選挙権の獲得に反対を唱えて無政府主義に転じたのもこの頃のことで、ここから1910年の大逆事件の悲劇へと導かれていくことになります。

 2月、社会党は解散を命じられ、平民新聞は相次ぐ発禁処分に極端な財政難に陥り、第75号で廃刊。日刊でしたから、3ヵ月足らずの命です。処分の理由は、「新聞紙法違反」、「官吏侮辱罪」などでした。

 ケヤ・ハーデーが来日したのもこの年のこと。

 管野須賀子は妹を結核で失い、自身も病床に伏せっていたときでした。

 いわゆる「赤旗事件」で、堺や大杉他4名と共に懲役刑を受けたのが寒村21歳の1908年のことです。事件の翌月、西園寺内閣が倒れ、第2次桂内閣が成立して、社会主義運動に対する弾圧は俊烈を極めます。

 獄中、寒村は幸徳と管野の結婚を知ります。

 伊藤博文の暗殺を知るのもこの時。また獄中、仲間の一人が変調を見せ始め、出獄後発狂して自殺することもありました。

 寒村は1910年22歳で出獄。

 しばらくして管野は、自由思想の罰金を労役に換えて入獄し、そのまま5月に、大逆事件で検挙されます。6月には幸徳秋水をはじめとして全国で数百名の無政府主義者、社会主義者が拘束されることに。

 年末26人が起訴され、大審院の秘密裁判で懲役8年と10年の2名以外、24名全員死刑の判決が下されます。終審後、弁護人に命じて一切の関係記録が裁判所に返却させられ、その後35年間にわたって国民がその真相を知ることはありませんでした。

 首謀者と認められた幸徳秋水は、中途から計画を断念し、管野に対しても実行中止を勧告し、また管野たちは、幸徳に実行の意志がないことを認めて、計画から除外したと陳述しています。

 その他の被告については、寒村の言葉を借りれば、

 「或いは陰謀の内容を聞いて賛否いずれとも答えず、ただ驚いたような顔をしていたとか、或いはそんなことが起こったら面白かろうといったのみで、積極的、具体的な共同謀議の事実は存していなかった。」

 勧誘されても拒否して、また幸徳・管野の恋愛関係を非難して2人から離れて郷里で堺等の出獄を待っていたひとりも、死刑の判決を受けて刑死しています。

 治安維持法が成立する15年前のことです。

 小学館の『ニッポニカ』によると、刑法第73条の大逆罪に問われたため、裁判は大審院における一審即終審で行われ、1人の証人を審問することもなく結審したといいます。

 翌年1月には幸徳、管野ら12名は死刑に。これに先立ち12名が天皇恩命として死刑から無期懲役に減刑され、うち5名は獄中で縊死、あるいは病死したということです。

 幼稚な天皇暗殺計画をフレーム・アップし、事件と直接無関係な社会主義者多数を巻き込んだこの事件は、桂内閣が社会主義運動の根絶をねらって仕組んだ史上空前の大弾圧であった、とニッポニカはいっています。

 治安維持法を待たずとも、欧米での抗議運動にもかかわらず、これだけの弾圧が可能だったことに、驚きませんか? 

 もっとも、すでに、1875年には「讒謗律(ざんぼうりつ。今でいう名誉棄損法)」「新聞紙条例」が、1880年には「集会条例」が作られて、自由民権運動弾圧に威力を発揮しています。

 維新前後の修羅場をくぐり抜けてきた政府要人にとって、人を獄に送ったり血を見ることなど、何ともなかったのかもしれません。そして1875年から70年にわたる弾圧の歴史が後世にまで残したのは、社会主義とはおそろしいものだ、という感覚かもしれません。

 

| | コメント (0)

無理が通れば道理が引っ込む

 4916117662 今日の新聞によれば、陸上自衛隊がアメリカ海兵隊の指導を受けて、暴徒鎮圧訓練をしていたらしい。

 昨年3月の沖縄米軍実弾演習場「キャンプ・ハンセン」での部隊防護の訓練研修報告書が、winnyウィニーを介して流出した陸自の内部データに含まれていたということです。

 研修は「基地(駐屯地)警備にあたる隊員が暴徒等を排除する場合」などの状況を想定。海兵隊の教官から、人の急所を素手や警棒で攻撃して行動を抑える訓練や、致命傷を与えない弾を使った射撃訓練などの指導を受け、写真説明や図解入りだということ。

 さらに今後の訓練に反映すべき事項として、「テレビの視聴者に悪い印象を与えない」「シビリアン(文民)への過剰な攻撃の禁止」など、マスコミ対策の重要性を指摘している、という話です。

 オブラートにくるんだ軍隊の姿を国民に印象づけようということですね。

『現職自衛官のびっくり体験記 逃げたいやめたい自衛隊』では、こうした治安出動訓練は、T訓練というらしい。

 そしてもうひとつ。

 4月30日に東京渋谷で起きたメーデーデモで3名逮捕のニュースには、腹が立つやら胸が痛むやら。

 同じサイトに逮捕時の動画がありましたから見てみました。

 始終、拡声器を使って大声でいろいろ喋っているのは警察側です。使用している言葉と口調こそ丁寧ですよ。でもあれは、明らかにデモの訴えに対する妨害です。デモ隊の声はほとんど聞こえてきませんもの。

 デモが訴えていることといったら、ごく当たり前なこと。

 不安定雇用層(プレカリアート、というらしい)をとりまく問題です。

『現職自衛官のびっくり体験記 逃げたいやめたい自衛隊』によると、戦後の自衛隊も、旧軍のあしき伝統をよく受け継いでいるらしい

 現代の警察も、戦前からの伝統をよく受け継いでいるのでしょうか。

 議論するな、既成事実を作れ、国民は馬鹿だから、とでもいっているのでしょうか。

| | コメント (7)

平民新聞と日露戦争

 万朝報退社後、幸徳と堺のふたりは、寄付と貸与、演説会のあがりで資金を捻出して平民社をつくり、1903年(明治36年)11月15日、週刊の『平民新聞』が発刊されます。

 平民新聞は普通の新聞の2つ折りの大きさに、創刊号は12ページ、ふだんは8ページ、1部3銭5厘(この年の春、海軍造船廠の見習い職工として入った寒村の日給が25銭)で、創刊号は5.000部がたちまち売り切れて3,000部を増刷したといいます。

 毎号の社説は幸徳が書き、堺は編集長で紙面の製作と経営にあたりましたが、筆禍問題が起こったときのことを考えて、発行、編集の責任者に堺が署名し、幸徳は印刷人として署名したという話に、堺利彦の心意気と覚悟がうかがわれます。

 幸徳には老母があり自身も病弱ということから入獄させるのが忍びない、ということです。後年、この堺の心配りも無駄になってしまいます。

 ちなみに、田中正造の直訴文を起草したのがこの幸徳でした。

 この平民新聞ではさまざまな政治政策をとりあげて論評するだけでなく、ドイツ社会民主党やイタリア社会党等、各国の社会主義政党の動きもよく伝え、また幸徳や堺の翻訳物も連載していたようです。ことに幸徳秋水の格調高い漢文調の名文は強い感銘を与え、またその下に載った同じ筆者の皮肉で辛らつな寸評も呼び物であったといいます。

 創刊翌年の3月に筆禍事件で下獄した堺の『獄中生活』も好評を博していますが、寒村の語によれば、「平民新聞の記事は長短錯落し、硬軟調和して変化に富み、隅から隅まで活気と興趣にあふれていた」そうです。

Photo_11 日露戦争が迫りくる時代、寒村は横須賀海軍造船廠で見習い工(写真左)をしていましたから、自伝では昼夜兼行の日ごとに激しさを増す労働とそれに忍従する職工たちを描いています。

 曰く、「脚気を患っている多くの職工が青竹の杖にすがって、工廠の門をくぐる姿を見るのは珍しくなく……青ぶくれした生気のない顔が悩む足を投げ出して坐り仕事をしている。それをみると、幽界にさまよう死霊に出会ったような不気味さを観ぜずにはいられない」

 そうした中、戦争を目前にした1904年(明治17年)1月、上京して、堺、幸徳、安部磯雄、木下尚江、西川光二郎らの社会主義の演説会を初めて傍聴し、その場で社会主義協会に入会し、海軍工廠も辞めることになります。

 世の中は軍人、政治家はもとより宗教家、評論家まで、それこそ「猫も杓子」も主戦論を声高に叫んでいましたが、少数であっても非戦論を貫く人たちがいました。

 雨宮敬次郎という実業家も、「英、独、仏などは怜悧なものだ……外国を教唆して喧嘩さすことばかり考えている。」などと『実業世界』上で述べたそうです。

 そういえば、昨日の朝のTV、多分フジテレビでしょうが、アーミテージ前国務副長官がインタビューに答えて何か言っていました。(新聞を見ると、「報道2001 同盟軍最前線‥‥日本の危険度 石破茂VS小池晃」という番組のようです)

 確か、日本の問題だから、と前置きしながらも、日本人が(憲法9条ののことを)考えか始めたのはとても良いことだ、日本は車に乗るだけでなく、先頭切って走るべきだとか何とか。

  さて、寒村が社会主義協会に入会した翌月には日露戦争が始まりますが、この時の戦費については、以下のように記しています。

 戦争ついに起こるや、日本の議会は総額六億に達する軍事費と六千万円の増税を可決し、五月には更に戦費をまかなうために一千万ポンドの外債をロンドン市場に募り、しかもその条件はヨーロッパの弱小国たるエジプトやトルコよりも不利であったのみでなく、関税収入をもってこれが担保にあてたのである。(『寒村自伝』より)

  そういえば、今の世も久しく増税論議が喧しいのですが、まさか憲法を改悪した後の戦費調達を考えているのではないでしょうね!?

 平民新聞は第10号(1904年1月17日号)の巻頭に「吾人はあくまで戦争を非認す」とかかげて以来その主張は変わらなかったそうです。

 Photo_12 その年の夏、寒村は初めて堺利彦を訪ねて、服部浜次、鈴木秀男等と横浜平民結社を創立しました。 

(左の写真は横浜平民結社の同士。中列右より、服部浜次、鈴木秀男、寒村) 

そして11月16日には社会主義協会が禁止され、翌年1月29日、平民新聞は廃刊になります。

 

| | コメント (2)

谷中村滅亡史

Photo_3  

「明治政府悪政の記念日……準備あり組織ある資本家と政府との、共謀的罪悪を埋没せんがために、国法の名によって公行されし罪悪の日」と寒村が呼んだ1907年(明治40年)6月29日、土地収用法が適用された栃木県下都賀(しもつが)郡)谷中村(やなかむら)の強制破壊が始まりました。

  Photo_6 足尾銅山の鉱毒問題は、すでに明治14年に時の知事が渡良瀬川河流の魚類の販売と食用を禁じた頃には知られていたようです。そうした中、21年の大洪水で渡瀬川・利根川沿岸一帯は鉱毒によって田畑が覆われ、翌22年には非常な不作に見舞われます。

 (この洪水も、古川鉱業所の製錬用薪炭材の乱伐が招いたものといわれていますし、当然煙害も周辺地域に及んでいました。)

 さらには24年の大洪水に、ついに栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉の各25・26・12・2・7村(当時)の被害民一同は、連署を添えて政府に請願書を提出することになります。

 曰く、「速やかに鉱毒除害の道を講ぜよ、しからずんば寧ろ(むしろ)直ちに鉱業を停止せしめよ」と。

 この時田中正造が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を国会に提出して政府の答弁を求め、この鉱毒問題は初めて公のものとなりました。

 が、国会は時をおかずに解散。その後しばらくしてやっと答弁が公けにされます。

「……被害の原因確実ならず……試験調査中なり……一層鉱物の流出防止の準備をなせり。」とは、その後何十年にもわたって日本各地で繰り返されることになる、責任回避の弁の始まりでした。

 日清戦争後の富国強兵・殖産興業の政策を重視して一般農民が顧みられることがなかったとはいえ、その裏には時の権力者、農務大臣の陸奥宗光と足尾銅山を経営する古川市兵衛の姻戚関係があったことを『谷中村滅亡史』は伝えています。 

 かつての海援隊の一員、治外法権の撤廃に尽力した明治の元勲は、寒村の筆力の前には形無しです。(ただし、陸奥は寒村のこの著作が出る当時にはすでに死亡)

「そもそも足尾銅山の鉱毒問題の原因は、政府委員(昭和40年に再びこの鉱毒問題が持ち上がったときの経済企画庁長官藤山愛一郎以下の委員を指すと思われます)がみずから認めているように、『坑内から出てくる硫酸銅を含んだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ』ことにある。」

 鉱毒反対運動は官憲による弾圧を受け、被害農民は威嚇・脅迫はもとより、誘惑・買収等の懐柔策に翻弄されて事態の進展はみられず、1901年、田中正造は天皇直訴に踏み切ります。

Photo_8 左はその時の直訴状。

 これにより世論は沸騰しましたが、結局、鉱毒問題は治水問題にすりかえられ、最後の抵抗拠点、谷中村は、廃村、遊水池となったのです。

 現在、谷中村は「谷中湖」にその名をとどめていますが、ここは渡瀬遊水池の一部をなしているにすぎません。

 おもしろいのは、寒村がたびたび、資本家と政府の「共謀」的罪悪、という表現をしていることです。もともと「共謀」という語は一般的な普通名詞ですからあたりまえのことですが、すぐに、今問題の「共謀罪」を連想してしてします。

 寒村のいうこの類の共謀罪は、審議中の共謀罪法案の取り締まり対象には当然入っていないのでしょうね。

 

| | コメント (14)

寒村翁

Photo_5 荒畑寒村。

1887年に生まれ、1981年に没。 

 まだ16歳かそこらの年で社会運動に身を投じ、堺利彦に師事して「平民新聞」の編集陣に加わります。のびやかに(?)弾圧の時代を生き抜いて、じつに1世紀近い人生を全うしています。

 私が初めてその名を知ったのは中学生の頃、60年代前半だったと思います。

 新聞にインタビュー記事が連載されて何とはなしに読み始めたのですが、「今の社会党は腐ったうどん粉のようなものだ」という寒村さんの言葉がやけに頭に残りました。

 田中正造の願いで著した『谷中村滅亡史』は寒村さん20歳の処女作ですが、発刊と同時に発禁処分にされて日の目を見ずにいたところ、復刻されたのが56年後のことでした。

 手元にあるのは1970年の版ですが、そこにある1枚の写真Photo_7 に目が引かれます。

 明治20年代に端を発した足尾銅山の鉱毒問題から、田中正造の奔走空しく同40年に強制土地収用に至った、かつての谷中村にあった墓石の、復刻当時の写真(左)です。

 先日のオフ会の折、久しく忘れていた「荒畑寒村」の名を思い出したところ、若い方はご存じなかったので、1度お伝えしようと考えていました。

『寒村自伝』には、当時の社会主義運動の内幕と自身の波乱に富んだ人生が余すところなく描かれています。そのうち興味のあったところを少しずつ書いていこうと思います。

 

| | コメント (2)

ジョハンズ米農務長官の嘘

Photo_4 もっこうばらです。

_079_3  愛らしい花ですが、小さなクリーム色の花なので、我が家の庭ではあまり目立ちません。

 

 外出する車の中でラジオのニュースを聞いていると、ジョハンズ米農務長官は2日にジュネーブで開いた日米農相会談で、検査頭数を縮小する方針を中川昭一農相に伝えたらしい。

 先月28日の電話会見では、米農務省が04年6月から実施してきた牛海綿状脳症(BSE)の拡大検査の結果を発表し、「米国でのBSEの発生率は極めて低い」と結論づけたというのがその理由。

 嘘でしょー、とおもわずつぶやく。

  以前にもお伝えしましたが、コネチカット選出の下院議員ローザ・デラウドさんが、

 相当数の高リスク牛(へたれ牛)が(検査前の段階で)屠殺場にもレンダリング工場にも送られずに、国中の牧場や農場で埋め立て処分されている、という証言がレンダリング業者から出ていること、

 そのために牧草地が異常プリオンに汚染される結果を招くのではないか

と懸念されることを述べているのは、2005年6月29日付の、ジョハンズ農務長官宛の書簡の中です。

 長官が知らないわけありませんよね。

 参考のため以下にその書翰のコピーを載せました。青地の部分が問題の箇所です。

June 29, 2005

The Honorable Mike Johanns

Secretary

U. S. Department of Agriculture

1400 Independence Avenue SW

Washington, DC 20510

Dear Secretary Johanns:

I write to you to indicate how concerned I am about the Department’s credibility following the latest Bovine Spongiform Encephalopathy (BSE) testing debacle, and to raise additional concerns about Animal and Plant Health Inspection Service (APHIS) performance and leadership. Unfortunately, these technological and scientific lapses can lead to a loss of confidence – not only in your management of BSE – but also in the capacity of the U.S. Department of Agriculture (USDA) to carry out its responsibilities to protect us from influenza outbreaks, and other zoonotic diseases.

To be clear, it is my understanding that without the intervention of the Inspector General (IG) we would never have known that an older beef animal, first tested over six months ago, was carrying BSE. General Fong is to be commended for her persistence and thoroughness in following her investigation, without which we would not have known that USDA was using a faulty scientific testing protocol, and indeed had run an “experimental” IHC test that showed the animal to be positive back in the fall. And we certainly might not have learned that the animal, whose herd affinity is very critical to seeking out and destroying other BSE carrier animals, had been so intermixed with non-positive animals that only DNA could be used to make a potential herd identification.

In April I wrote to you about failings in the APHIS Surveillance Program. Unfortunately, I believe that this incident presents a picture of deteriorated management at APHIS more clearly than in April. In addition, I have recently heard from professionals in the rendering industry who tell me that significant numbers of high risk animals are definitely not being presented either for slaughter or for rendering, leading to a call from them for immediate regulation of on-farm land filling to prevent prions from becoming endemic in pasture on which cattle would be grazed in the future. Unfortunately, evidence is mounting that the high-risk animals, claimed by APHIS to be covered by its Surveillance Program, are really being disposed of on ranches and farms across the country.

A well-managed program for BSE identification and eradication would consist of:

  • the use of the best technology and testing protocols for suspect animals and for a mandatory, statistically valid surveillance program,
  • followed up by the best review of any presumptive positive tests – even if they have to be sent to another country;
  • a national animal identification program capable of retrieving data about and finding animals within 48 hours of a triggering incident;
  • an effective and thorough feed ban plan and enforcement of that plan to prevent cattle tissue from being included in cattle feed; and,
  • enforced slaughter procedures complete with a whistleblower protection for inspectors who observe and report violations of the Specified Risk Materials (SRM) procedures.
  • immediately speak with Secretary Leavitt to request him to move FDA’s Center for Veterinary Medicine quickly to fulfill its initial commitment to ban cattle blood, poultry litter and plate waste from the feed supply and move to a species specific segregated feed manufacturing system;
  • move the USDA timetable for a National Animal Identification System (NAIS) capable of 48 hour tracing of cattle movement and location – to be followed by other species; and
  • renew the focus on support for slaughter inspectors to assure the public that Specified Risk Materials (SRMs) are consistently being removed from the meat supply.

  • Mr. Secretary, my April letter only identified the tip of the iceberg of problems in BSE management in USDA. Now you must move promptly to ensure that there are no more significant omissions and failures as we go forward.

    Sincerely,

    Rosa L. DeLauro

    Ranking Member,

    House Subcommittee on Agriculture Appropriations

  • Frankly not one of those criteria is being met at the moment. I understand you have taken a few steps to implement improvements in some of these areas. Others, like the feed ban improvements do not fall under USDA’s authorities, yet APHIS managers are touting the effectiveness of the feed ban.

    However, this is a matter for the Cabinet to address to protect our public health and the economic health of one of our largest industries. When you testified before our subcommittee in February, I asked you if you intended to work with Secretary Leavitt to protect the food supply. This is an immediate opportunity for you to do so.

    I urge you to:

    | | コメント (0)

    ニヒリズムの革命 その4

    _067 ハナミズキが咲きました。まだ植えて数年ですから、背丈にもなっていません。

    _066_1 白を買ったとばかり思っていたら、赤花の方でした。

     さてこれまで、首相や都知事の尊大な態度や言動はナチスのやり方――大きな嘘、攻撃性、議論をしない、一般市民を馬鹿にする――を踏襲して、綿密な計算の元に行われていると言いました。

     これにみんなの好きなブランド志向が重なって、絶妙な効果が出ています。ブランドといっても、その始まりを辿ってみればどうってことないのですが。

     あの、ブランドに反抗した福沢諭吉に始まる家と大学でも、すぐにブランド化してしまった皮肉。人間は何か仰ぎ見るのを持っていないと安心できないのでしょうか。

     今日は、また、大衆をいかに無力化するかという問題に対するナチスの回答を見ていきます。

    「生のあらゆる領域において大衆をアトム化すること、また大衆が政治的働きを持つことのできそうなところでは、行動力のある集団の形成を防止すること、しかし大衆が受け身に立ち、暗示的なスローガンを受け入れる用意のあるところではどこであれ、大衆を糾合することである。……これが、……ナチスの戦術である。」

     なぜ共謀罪にこれほど執着するのか、という疑問に対して、ここにひとつ、答えがあります。行動力のある集団の形成を防止するためです。そして一方では、自分たち以外は馬鹿なのですから、下流になろうが、戦争で死のうが、どうってことない、と考えているのでは? と疑いたくもなります。

     ナチスが政権をとってからこの『ニヒリズムの革命』が出版されるまで、ちょうど5年間。小泉首相の在位期間と同じです。5年という歳月で、随分なことが出来るものです。

     ヒットラーがオーストリアに侵攻し、さらにはチェコスロバキアのズデーテン地方へも触手を伸ばすことが明らかになって、ラウシュニングは出版を決意しました。 ラウシュニングはさらに言います。

    「ナチスの大衆操作には、革命的気分を眠らせないでおくという意味もある。こうすることによってのみ、大衆を思うままに操縦できる流動的なより集まりの状態にいつでも置いておけるのだと考えている。……新しい社会を形成する芽をことごとく摘み取った……

     このような体制の中でプロパガンダは、コミュニケーションの手段ではなくなり、上からの指導を下からの批判や承認という刺激によってバランスをとるという使命を果たしもしない。それはただひたすら支配の手段であり……その効果を支えるために、テロや残虐な強制という方法が併用されるのである。」

     この中の「革命」を「改革」という語に置き換えてみましょう。またここにいう「テロ」は、ナチスの支配手段のひとつを指しています。

    | | コメント (8)

    « 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »