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大杉あれこれと軍隊

_013_1 ずいぶん昔のことになりますが、NHKFMで大杉栄の『日本脱出記』の朗読が続いたことがありました。

 _014_1 なにか気むずかしそうなイメージのあった大杉でしたが、内容はほとんど忘れて、この脱出記は結構おもしろい……という感覚だけが残っています。

 唯一覚えているエピソードは、アイロンを使って目玉焼きを焼いた、などというたわいもない話ですが、なんだか大杉の型にはまらない生き様をよく表しているような気がします。

 1908年6月の仲間の出獄歓迎会でこの大杉と寒村がいたずら心を出して、「無政府共産」とか「無政府」とかの白いテープの文字を赤地の布に縫いつけて竹竿にくくりつけたのを振り回し、検挙されたのが「赤旗事件」です。

 旗を持つ寒村に警官が飛びかかり、同士が救援に駆けつけ、「真夏の白昼、濛々と立ち上る砂煙の中に旗の影はたちまち表れたちまち消え」てもみ合ううち、仲間の4、5倍にのぼる警官が応援にきて、「帽子を飛ばし、衣服は破れ、素足になった私たちは高手籠手に縛られて拘引されてしまった。」

 仲裁に入った堺も検挙され、結局4名の女性を含む総勢13名が留置場に入れられたといいます。

 逆らう彼等に、とうとう警官は大杉と寒村を裸にして引きずり回し、殴る、蹴る、踏んづけるなどして、このとき大杉が悔し泣きに泣いたのを、寒村は初めて見たそうです。

 Photo_18 公判で被告等は無政府主義者かいなかを問われ、堺と山川以外は然り、と答えたということですが、寒村はそれを、「わずかに断片的な無政府主義の革命理論をのぞいたにとどまり」といい、意識的なアナーキストは大杉だけであったろうと語っています。

 結局、堺や大杉等は懲役2年、寒村は1年半。意外に重い判決に「負け惜しみも手伝って……無政府主義者万歳」を叫ぶ彼等の前で「裁判長の方がビクビクし、判決文を読む手がブルブル慄えて」いたということです。

 裁判官がなぜ震えていたのでしょうか。

 寒村や大杉たちが怖かったわけではないでしょう。

「無政府主義者万歳」というとんでもない禁句を被告たちに言わせてしまった己の立場を考えて、恐ろしくなったに違いありません。

 確か私たちは、義務教育で、1891年(明治24年)のロシア皇太子暗殺未遂事件に際して、「法律は国家生存の動脈なり」といって、法律を曲げるように要求する政府からの圧力をはねのけた大審院長の話を「司法権の独立」の見事な例として学びました。

 でもこの赤旗事件の判事は、そんな気骨のある人ではないようです。

 旗か幟の類を警官に奪われる事件は、つい先日、4月30日にもありました。

 デモ隊の「MAYDAY」の垂れ幕が奪われるだけでなく、サウンドシステムを積んだトラックが持ち去られ、さらには「公務執行妨害」等で3名まで逮捕されたようです。

 ところで、寒村らに懲役刑で与えられた作業は下駄の横鼻緒をナウというもので、ここでも大杉は器用さを発揮して一番早くて一番良い仕事をしたといいます。

 この赤旗事件で下獄していたことから、大杉、寒村等は大逆事件に巻き込まれずに済んだわけですが、13年後に大杉は、伊藤野枝、甥の橘少年(6歳)と共に、大震災後の騒然とした空気の中で甘粕大尉ら軍部に捕まり殺害され、遺体が古井戸に投げ込まれる事件が起きます。

 震災後の一連の虐殺事件を、寒村は「震災テロル」と呼んでいます。

 軍部はこの虐殺事件を隠しきれずに甘粕は軍法会議にかけられますが、この犯行自体が軍中央の命令とされています。

  そのためか、甘粕自身は大赦により約3年で刑期を終え、陸軍の官費で、単身赴任どころか妻をともなって2年間のフランス留学をしています。3年間の服役のご苦労さん代でしょうか。

 後に彼は大陸に渡って満州事変の仕掛け人にも連なり、1945年8月20日に自死するまで、彼の地で大いに権力をふるうことになります。ラストエンペラーで坂本龍一が演じている人物です。

 まったく、軍隊が関わるとろくなことはない、という思いが湧いてきます。

 幸徳秋水らの事件も、ときの首相桂太郎はかつての長州藩士ですが、軍人出身です。彼の下で、西園寺内閣が結党を許した日本社会党などの政治運動の弾圧が強化されていくわけです。

 明治以降の日本の軍隊の特殊性は、ヨーロッパのように旧来の支配層が軍部を掌握するのではなく、軍隊内の階梯を上っていくことで、平民が支配層にのし上がることが出来たことです。

 これも巧みな庶民統治のひとつですね。

 桂太郎も戦功で次々に爵位をとり、ついには韓国併合の功で公爵に上りつめています。

 末は博士か大将か、と立身出世を願う庶民が呟いているではありませんか(いえ、本当は「末は博士か大臣か」ですが)。

 そしてこの間の連休中に、日米軍事同盟はまた新たな段階に入ったようです。

 これについて詳しいことは、岸田コラムでお読みください。

 

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コメント

中公新書に,石光真人『ある明治人の記録 --会津人柴五郎の遺書』という本があります。この柴五郎なんかが典型例なんですよね。12歳で下北半島へ流され,13歳で青森県庁に勤めるもののすぐにクビになり,15歳で陸軍幼年学校へ入学したあとは,とんとん拍子に出世して,1919年には陸軍大将として台湾軍司令官とかり,1945年12月に87歳で亡くなった職業軍人です。

朝敵にされてしまった会津人たちは,その学識を生かして軍人や学者や教員になるしかなかった。他の身分の役人にはなれなかったからです。

実は私の小中学校時代の教頭先生がやはり会津出身者で,薩摩や長州の悪口を聞かされた思い出があります。これが教科書に書かれていない本当の歴史なのだなと感涙しましたね。東京教育大学を潰したのは,単に学生運動を扇動したからというレッテル貼りだけではなく,会津藩の拠点だったからではないかという気がしてならないのです。

投稿: kaetzchen | 2006年5月11日 (木) 18時04分

TBが内容と合いませんが、とりあえず、送っておきます。

投稿: とくら | 2006年5月11日 (木) 20時50分

お邪魔します。1960年頃に、会津に行って観光案内人から、官軍の横暴について聞かされた記憶があります。
 もう昔ですが感情を込めて、甘粕を罵倒する老人の幾人かを知っておりました。
1868以降の歴史は本当に庶民にとって悲惨なものだったと、身近な所から感じるとともに、残せるものならと思っております。

投稿: じゅん | 2006年5月11日 (木) 21時34分

細菌学者としての業績は何もないのに,野口英世がどういう訳か偉人として奉られてしまったのも,会津の人たちの無念の思いの裏返しなのかも知れませんね。彼は実際には国の研究費やロックフェラー財団の研究費を横領して,結局アフリカへ逃げざるを得なかった詐欺師なのですけれども……。

# 大学で細菌学や微生物学を齧った人なら,野口英世の名前がどこにも出て来ないことで,彼の名声が実は虚名だったことがすぐに分かると思います。事実は事実として一応。

夕方に出した柴五郎は軍人を辞めたあと,第二次大戦は必ず負ける,中国を支配するのは八路軍つまり共産党だという予言を残しています。私も関西地方の下級武士の子孫として,子供の頃は夏休みや冬休みに,祖父から漢文の素読を習いました。厳しかった祖父母のしつけが今になると懐かしく思えてなりません。柴五郎も幼い頃から四書五経を諳んじていたとか。やはり中国古典に学べば,明治維新や第二次大戦や今の自民党の政策はやくざの暴挙だということが嫌と言うほど分かるというものです。

投稿: kaetzchen | 2006年5月11日 (木) 22時34分

 とくらさん、OK。
 kaetzchenさん、じゅんさん、ありがとうございます。
 私は小6のときに会津若松に行っております。おかげで白虎隊の歌は今でも歌えます。
でも戊辰戦争の背景を知ったのはまだ後のことです。
 とにかく、勝てば官軍、といわれたように、会津の人たちはご苦労されたのでしょうね。
 野口英世については、昔、黄熱病の研究中になくなったとは聞きましたが、一体何の発見をしたの? と何度も疑問を持った覚えがあります。そんなことだったのですね。
 それと、大して関係ないけれど、彼と私は誕生日が同じなんですよね、確か。

投稿: とむ丸 | 2006年5月11日 (木) 23時01分

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