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治安維持法を待たずとも

Photo_14 写真は、英国独立労働党首ケヤ・ハーデー歓迎会。

中列ケヤ・ハーデーから左に、管野須賀子、福田英子、堺為子、堀保子、片山潜、(2人おいて)堺利彦。

 前列3人目が寒村、ケヤ・ハーデーの左の子どもが堺真柄、その左に幸徳千代子、山川均、2人おいて幸徳秋水。

 幸徳秋水、管野須賀子の名は、戦後生まれの私の子ども時代でも、声を潜めて、なにやらおどろおどろしい感じで語られていたようなイメージがあります。

 そんな2人が、間違いなく血の通った人間で、社会の不正義に憤りを持っていた人たちだと知ったのは、だいぶ後のことです。

 この2人が刑死するに至るまでの周辺の事情を、「寒村自伝」をもとに、書いていこうと思います。

 管野須賀子は、「薄幸」というにはあまりに過酷な運命を背負っていたように思われました。

 少女時代に継母の奸計で男から凌辱されるなど幼少のころから苦労し、大人になっては事業で失敗した父と弟妹をかかえて、どうにかこうにか文筆業で生活の糧を得ていたようです。

 1906年、寒村19歳のときに、管野須賀子と寒村は、一時京都で同棲、その後東京で所帯を持っています。

 この年、「普通選挙の期成」を目的とする日本平民党、「国法の範囲内で社会主義を主張す」る日本社会党が組織されています。

 結党直後の東京市街鉄道3会社の電車賃値上げ反対運動で、党員その他21名が検挙・起訴されていますが、罪名は、兇徒嘯集罪でした。そして控訴はされるものの、第一審では無罪の判決をえました。

 年が明けてすぐ、1907年(明治40年)の1月、日本社会党の機関誌として、日刊「平民新聞が生まれます。

(下の写真、横長の方は、左の写真の下部を切り抜いたものです。)

Photo_16  創刊して1ヵ月ほどで、坑内員の待遇改善要求から足尾銅山の騒擾が勃発。

 Photo_17 この時編集部にいた寒村が戒厳令下の足尾町に入ると、軍隊が小隊に分かれて駐留し、宿という宿は軍隊の司令部、裁判官、警察官、新聞記者であふれていたといいます。

 みだりに軍隊を動かした政府の責任が追求されても、内務大臣原敬は、「坑夫の一部を教唆先導して暴動を起こさせたものがあり……」と、攻撃の矛先をそらしますが、その年、暴動を伴った大きな労働争議だけでも20件を数えたとのこと。

 幸徳秋水が普通選挙権の獲得に反対を唱えて無政府主義に転じたのもこの頃のことで、ここから1910年の大逆事件の悲劇へと導かれていくことになります。

 2月、社会党は解散を命じられ、平民新聞は相次ぐ発禁処分に極端な財政難に陥り、第75号で廃刊。日刊でしたから、3ヵ月足らずの命です。処分の理由は、「新聞紙法違反」、「官吏侮辱罪」などでした。

 ケヤ・ハーデーが来日したのもこの年のこと。

 管野須賀子は妹を結核で失い、自身も病床に伏せっていたときでした。

 いわゆる「赤旗事件」で、堺や大杉他4名と共に懲役刑を受けたのが寒村21歳の1908年のことです。事件の翌月、西園寺内閣が倒れ、第2次桂内閣が成立して、社会主義運動に対する弾圧は俊烈を極めます。

 獄中、寒村は幸徳と管野の結婚を知ります。

 伊藤博文の暗殺を知るのもこの時。また獄中、仲間の一人が変調を見せ始め、出獄後発狂して自殺することもありました。

 寒村は1910年22歳で出獄。

 しばらくして管野は、自由思想の罰金を労役に換えて入獄し、そのまま5月に、大逆事件で検挙されます。6月には幸徳秋水をはじめとして全国で数百名の無政府主義者、社会主義者が拘束されることに。

 年末26人が起訴され、大審院の秘密裁判で懲役8年と10年の2名以外、24名全員死刑の判決が下されます。終審後、弁護人に命じて一切の関係記録が裁判所に返却させられ、その後35年間にわたって国民がその真相を知ることはありませんでした。

 首謀者と認められた幸徳秋水は、中途から計画を断念し、管野に対しても実行中止を勧告し、また管野たちは、幸徳に実行の意志がないことを認めて、計画から除外したと陳述しています。

 その他の被告については、寒村の言葉を借りれば、

 「或いは陰謀の内容を聞いて賛否いずれとも答えず、ただ驚いたような顔をしていたとか、或いはそんなことが起こったら面白かろうといったのみで、積極的、具体的な共同謀議の事実は存していなかった。」

 勧誘されても拒否して、また幸徳・管野の恋愛関係を非難して2人から離れて郷里で堺等の出獄を待っていたひとりも、死刑の判決を受けて刑死しています。

 治安維持法が成立する15年前のことです。

 小学館の『ニッポニカ』によると、刑法第73条の大逆罪に問われたため、裁判は大審院における一審即終審で行われ、1人の証人を審問することもなく結審したといいます。

 翌年1月には幸徳、管野ら12名は死刑に。これに先立ち12名が天皇恩命として死刑から無期懲役に減刑され、うち5名は獄中で縊死、あるいは病死したということです。

 幼稚な天皇暗殺計画をフレーム・アップし、事件と直接無関係な社会主義者多数を巻き込んだこの事件は、桂内閣が社会主義運動の根絶をねらって仕組んだ史上空前の大弾圧であった、とニッポニカはいっています。

 治安維持法を待たずとも、欧米での抗議運動にもかかわらず、これだけの弾圧が可能だったことに、驚きませんか? 

 もっとも、すでに、1875年には「讒謗律(ざんぼうりつ。今でいう名誉棄損法)」「新聞紙条例」が、1880年には「集会条例」が作られて、自由民権運動弾圧に威力を発揮しています。

 維新前後の修羅場をくぐり抜けてきた政府要人にとって、人を獄に送ったり血を見ることなど、何ともなかったのかもしれません。そして1875年から70年にわたる弾圧の歴史が後世にまで残したのは、社会主義とはおそろしいものだ、という感覚かもしれません。

 

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