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もっと大切な仕事がある――コンドリーザ・ライス

 2002年に、ニューヨーク・タイムズに寄稿するライター、ペーター・ランズマンはバウトのインタビューに成功しています。国連等の追跡を巧みにかわし、メディアを避けてきたバウト唯一の公衆の目に触れる写真は、前の記事に載せたコンゴで隠し撮りされたもの。そしてこのインタビューで撮ったものが、前の記事にある最初の写真。場所はモスクワのとあるホテル。
 インタビューは終始寛いだ雰囲気で行われたようですが、バウトはけっして全てを語ることはありません。もし全てを明らかにするようなことがあったら、自分の命が終わることを承知しているからです。
 この時バウトは36歳。180cmを越える恰幅のいい体格です。
 最初はグラジオラスや冷凍チキンの輸送業務を手がけた青年は、次第に鉱業機器、ダイヤモンド、カラシニコフ突撃銃、銃弾、武装ヘリコプター等を積んで、国連の通商禁止下にある国々へを飛んでいくことになります。
 処女飛行はモスクワからデンマークまで。25歳の時です。翌年、活動をアラブ首長国連邦に移しますが、ここはアジア、アフリカ、ヨーロッパ間の通商・輸送の交差点ともいうべき所です。この地でバウトは盟友ともいうべきチチャクリと出会います。(チチャクリはエア・バスの社長です)所有する複数の飛行機は、中央アフリカ共和国、リベリアといった国で登録されました。 

 1995年にはベルギーのオスタンド、ウクライナのオデッサまで飛行業務を広げます。オスタンドは鍵になる都市の一つで、この11年前にはイラン‐コントラ事件で
イラン側に売却された武器はこの地を通過して運ばれました。(同事件はレーガン政権下で起こったものですが、この時の副大統領がパパ・ブッシュです)
 ベルギー当局は逮捕状を取りますが、この時の罪状は武器取引ではなく、マネー・ロンダリングとダイヤモンドの密輸です。
 1996年にはバウトはアラブ首長国連邦160の空輸会社の中でも最大規模の、従業員1,000人の会社を経営していました。
 1997年までには、南アフリカまで商売の手を広げています。

 1967年にタジキスタンで生まれたバウトは、モスクワの軍事通訳養成機関の後、経済学の学位を得るために、ロシア軍事大学へと進みました。その後1991年まで飛行連隊で勤務しましたが、そのうち2年間はモザンビークですごしています。折しも、同国の内戦が終わる頃です。
 バウトはKGBとは何の関係もないと主張しましたが、それを証明する書類は、偽造されたか購入された可能性がある、とランズマンは考えています。

 バウトの個人的友人は、イラク北部同盟のマスード将軍、ザイールのモブツ大統領、アンゴラのサビンビ大統領、リベリアのテイラー大統領たちを含むと本人が語っていますが、すべて紛争地の指導者です。 

ふたつの超大国の下請け人だった武器商人たちですが、ベルリンの壁が崩壊してからはほとんどのブローカーが自由契約となり、イデオロギー、忠誠、結果がどうなるかといったことなど顧みることなく武器を売りまくります。
 旧ソ連のうちでもロシアを除く共和国の中ではウクライナが最も多くの武器を手に入れますが、それは100万人の軍隊を支えるほどの量です。膨大な量の原子力兵器はロシアに返されます。が、1992年から1998年の間に、およそ320億ドルの武器がウクライナから消えてしまいました。そこには、バウトたちが関わっていたということです。

 武器商人たちは密輸をごまかすためにうわべは合法的なビジネス活動を装います。武器の注文はクモの巣状に張り巡らされた人的ネットが使われますが、それを通じて、往々にして現金の受け渡しも行われます。そうした繋がりの最初によく来るのが軍隊で、将校たちには賄賂が渡されます。
 武器をいっぱいに詰めた箱には「フルーツ」のラベルが貼られることも。「給油」のために停まった所で、積み荷を交換したり、テイルナンバーが、着陸時と離陸時では異なったり。

 彼等の扱った商品の送り状には、たとえば、ロシア製MI-8T武装ヘリコプター2機、ミサイル発射装置4台、爆弾発射装置3台と予備の備品でしめて190万ドル+9万ドルなどと記載されています。これらの兵器は、表向きは象牙海岸が目的地にになっていますが、実際はリベリアへ運ばれたものだという情報部の話でした。


 

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