行政改革と議院内閣制
「行政改革推進法案」なるものが23日に国会に提出されましたし、残る任期で改革の総仕上げをする、と首相は言っています。行革、行革と耳にはしますが、いったい行政改革とはどんなものなのでしょうか、実は調べるまで私もよく知りませんでした。なんとなく、小さな政府をつくるということかなあ、などと思っていましたが、「小さな政府」の中味を理解している人自体、あまり多くなさそうです。いつかNHKラジオで街行く人にインタビューしていましたが、的確に答えていた人は本当に少人数でした。
どうも行政改革には
1.行政機構のスリム化
2.内閣機能の強化
という二つの面があり、そこから小さな中央政府を実現していこう、ということのようです。
東京大学公共政策大学院院長の森田朗さんは行政学が専門だそうで、平成13年には地方分権改革推進会議委員をされている方ですが、その方が1999年に書かれた「行政改革の課題――内閣機能の強化と総合調整」には、次のように書かれています。
規制緩和にせよ、地方分権にせよ、そして本稿で取り上げる行政改革会議の報告が示した諸改革にせよ、いずれも成熟段階に達した福祉国家の下で、円滑に機能しなくなった、あるいはコストがかかりすぎるようになった中央集権的行政システムの改革をめざそうとするものである。
森田教授の話では、
明治以来形成されてきた発展指向型のシステムが、成熟段階に達した日本社会に適さなくなった。
規制緩和によって省庁による民間活動への介入を縮減し、地方分権によって地域のことは地方自治体が自ら決定できる仕組みに変え、内閣の機能強化で、中央の行政府の権限を縮小して、政治家ないし政党が実質的な権限を獲得する、ということです。
さらに教授は、現行の内閣法が定める内閣制度についても疑問を投げかけて、「議院内閣制の下での内閣は、本来、そのあり方を自らの裁量によって定めてのよいのではないか」と言い切ります。その根拠は、「議会から選出され、行政各部を指揮監督しうる内閣総理大臣あるいは内閣は、国会によって信任されている」ということ。
さて、内閣、ことに内閣総理大臣の機能強化について、以前にも自民憲法草案にある「内閣総理大臣の総合調整権」を取り上げて説明していますが、自民草案の憲法を待たずとも、すでに内閣府の創設等で制度的にも整えられてきています。
それで、憲法違反をものともせず、既成事実を積み重ねていく小泉純一郎というパーソナリティを目の前に見て、私たちは危惧を抱かざるおえないわけです。
森田教授は、「(政治家あるいは政党の)力量の問題は政治家自身の自覚と成長、そして力量のある人物の国民による選択にかかっているといえるが、制度上それが可能でなければ、たとえ力量のある人物がその地位についたとしても、、それを発揮することはできない」とまでいうのは、これが書かれた1999年に、「力量のある人物」を誰か想定していたのでしょうか?
また議院内閣制について、植草一秀さんは、議会多数派と行政権力=内閣は基本的に同一」であることから、「絶対権力を創出するポテンシャリティーを持つ仕組み」だと指摘されています。
議院内閣制という同じものを見ながらも、森田教授と植草さんは、まったく違った角度から見ています。
私としては、森田先生の方は政治を行う人に対してあまりにも楽観的で、色々な意味での権力の怖さを問題にしなさすぎるように感じるのですが。
植草さんは、議院内閣制の下では、内閣総理大臣が権限をフルに活用すると三権の頂点に君臨する存在になる、と言われています。事実、今の日本は、そうなりつつあるのではないでしょうか。
これまでは「自己抑制」がどこかで働いてきて、「三権分立」のタテマエが曲がりなりにも成立してきたが、小泉首相はタテマエ上の権力を100%行使して、国会と司法、そしてメディアを支配しているという氏の言葉に頷くばかりです。
植木枝盛は「民権数え歌」をつくって、民権思想を一般に広めました。これに対して、中味を語らずにただ改革の連呼で押し通したのが昨年の選挙でした。何だか国民もバカにされたものです。そこで、植木の数え歌を一つ。
七ツトセー なにゆえお前がかしこくて 私らなんどは馬鹿である コノわかりやせぬ
(ついでに後も)
八ツトセー 刃で人を殺すより 政事で殺すが憎らしい コノつみじゃぞえ
九ツトセー ここらでもう目をさまさねば 朝寝はその身のためでない コノおささんせ
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